大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

秋篠寺に行く・・・下

柔らかな緑の苔の道をしばし歩いた先に、本堂はある。境内全体を覆う木立がそこだけ途切れ、光あふれる空間がそこにはあった。

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質素な・・・清々しいばかりに質素な、正面5間ばかりのお堂がそこにはある。側面は4間ほどであろうか。屋根は寄棟造で、本瓦葺き。お堂の周囲には縁などはなく、その内部も床を張ることなく土間となっている。鎌倉時代の建立のこの和様の仏堂の代表作の1つは、鎌倉時代の再建でありながらも奈良時代のそれを思わせるような風情である。

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その堂内には本尊である薬師三尊像を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像、帝釈天立像、伝伎芸天立像が鎮座しているが、なかでもこの清らかな古寺の名を高からしめているのは伝伎芸天立像である。堂内は写真が禁止されているがゆえに、その美しい姿を写真におさめ、皆さんにお示しすることが出来ないのは残念であるが・・・どうしてもという方のために・・・とくとご覧あれ・・・

 

その身の丈は2mと少し。本堂仏壇にの向かって左の端に静かに立っている。頭部は奈良時代作の脱活乾漆造で体の部分は鎌倉時代の木造による補作である・・・が、後の世に補作されたとは思えぬほど、その全体は見事なまで調和を保っている。鎌倉時代の匠の水準の高さを推して知るべし・・・である。

さて、上に「伝」伎芸天立像と書いたが、実のところこの像がはじめから技芸天として人々から崇められていたかどうかは、実のところ定かではない。伎芸天の彫像の例がこの国ではあまり見当たらず、それが伎芸天であると判断するための論拠が存在しないためである。だから「伝」なのである。

けれども人々は、腰をわずかにくねらせた艶やかな身のこなしと、端正でありながら肉感的なそのお顔立ちから、これが伎芸天であると信じて疑わずに手を合わせ続けてきた。それでいいと思う。人々はこの優雅な姿に、容姿端麗で器楽の技芸が群を抜いていたと言われるこの御仏(正しくは天)を見たのだ。信仰とはそういうものだ。科学的な詮索などそこには何の意味も成さない。

ところで私は今、この御仏の姿をなにかしらの言葉で表現しなければならない。けれども、この国の古き工人たちの技の結晶を、私の乏しい語彙で表現することはとうてい無理なように思われる。仕方がないから、以前一度紹介したことのある堀辰雄の一文を今再び皆さんにお示ししたいと思う。

いま、秋篠寺という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香、にお灼やけになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。

(「大和路信濃路」)

いかがだろうか・・・

さて、そんな優美な御仏の前でしばらくの間、「眼福」という言葉に浸っていた私であったが、その後、本堂を後にして南門へと向かった時、少々血生臭い歴史の一面を垣間見ることになる。

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南門を出てすぐ右手にあるのが八所御霊(ゴレイと訓むらしい)神社である。秋篠寺の鎮護の社としてこの場所にあることは疑いはないが、私が興味を抱いたのはその祭神たちである。

崇道天皇、伊豫親王藤原吉子橘逸勢、文屋宮田麻呂、藤原広嗣、吉備大臣、火雷神の八柱である。

祟道天皇とは桓武天皇の実弟で、桓武天皇の即位に際しては皇太子に立太子し、次の皇位は約束されていたが、藤原種継の暗殺に関わって罪を受け、流所である淡路島に向かう途中、無実を訴え絶食し非業の死を遂げた皇子である。以下、6番目の藤原広嗣までは、政争に敗れ、あるいは罪を受け、非業の死を遂げたものばかりである。7番目の吉備大臣とはおそらくは、あの吉備真備のことであろう。前回述べた平城京末期の井上皇后と他戸親王の事件に関わっては、井上皇后と他戸親王の側に立っていた。故に、この秋篠寺とはその関係は浅くない。

全国に数ある御霊神社がそう言った荒ぶる御霊を鎮めんがための御社ではあるが、ここではそんな荒ぶる御霊が、秋篠寺の鎮護の神となっている。秋篠寺が同じく無念の死を遂げた井上皇后と他戸親王の御霊を弔うための寺であったことを考えると極めて自然なことなのかもしれない・・・