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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

白山神社(桜井市・黒崎)

毎朝、職場のある奈良市都祁に向かう途中、いつも気になって仕方のない御社がある。国道165号線を私の住む三輪から東に進むこと4㎞弱、黒崎の地にその御社はある。名は白山神社。全国いたるところにある名のこの神社は、 加賀一の宮、石川県白山市に鎮座する白山比咩(シラヤマヒメ)神社を総本山とし、菊理媛(ククリヒメ)命を主祭神とする。菊理媛は古事記には登場せず、わずかに日本書紀の「一書に云う」の形で、ほんの一か所に出てくる神の名だ。この国の最初の夫婦喧嘩とも言われる伊弉諾(イザナキ)命と伊弉冉(イザナミ)命の黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)においての口論の際に、その間に立って仲介をなした女神である。

白山神社の前は、車どおりが激しく、しかも狭い。道端にちょいと車を止めて参拝するわけにはいかない。しかも駐車場はない。一度、たずねてみたいとは思いながらなかなかその願いがかなわずにいたのは、それが故にである。

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・・・が、ご覧ととおり、何の変哲もない・・・大和の盆地にあってはごくごくありふれた御社である。

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狛犬さんだってそう珍しいものとは思えない。

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本殿だってそうだ。朱塗、春日造で檜皮葺。古寺や古社がいたるところに散在する大和盆地にあっては、それほど目立つ歴史や由緒を持つような神社ではない。

ならば・・・なぜ私がそんなお社に興味を抱いたのか。

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ひとえにこの石碑の存在がゆえである。そこには「萬葉集發燿讃仰碑」と彫り付けられている。文字は我が桜井市出身の文人、保田與重郎のものだ。

その日の脇には市の教育委員会による説明版がある。

雄略天皇 泊瀬朝倉宮伝承地】
桜井市黒崎の「天の森」が、朝倉宮の地であろうとの説は、『大和志』や『日本書紀通証』などで、述べられている。が立地的に見て、宮を営むのに適地ではない。保田興重郎氏は、この白山神社付近をその候補地とし、雄略天皇の歌で始まる『万葉集』の発祥の地として、神社境内に記念碑を建立したものである。

そう・・・ここが万葉集の劈頭を飾る御歌を残された雄略天皇の宮、泊瀬朝倉宮だというのだ。それゆえ、保田はその宮跡と考え得るこの地を「萬葉集發燿讃仰」の地と定めたのだ。

となれば、学生時分にわずかながらでも万葉集を囓ったものは、これに対しまったくの無関心を決め込むことはできない・・・

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上の石碑のすぐわきには件の雄略御製を刻んだ石碑が・・・

写真では少々読みづらいので、その書いてあるところを以下に示す・4

籠(コ)もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告(ノ)らな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告のらめ 家をも名をも

万葉集巻一・1

とそこには刻んである。念のために示したカッコ内の訓みは私がふったものである。原文がすべて漢字である万葉集にあって、その訓みは未だ確定されているものではなく、多くの方々が周知のこの歌でさえ、その訓みは定まったものとは言えない。よってここでは上の石碑に従ったものを掲げたが、私自身、少々「?」と思う点はある・・・が、深入りすれば際限はなくなる。とりあえずここは石碑の訓に従っておこうと思うが、参考までに原文を次に示しておこう。

篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母

春の・・・うららかな日。帝王雄略はその宮の近くの丘に若菜摘む娘を見かけ、親しく声をかける。「おお、なんと美しい篭を持って・・・おお、なんと(植物採取用の)美しいへら持って・・・この丘で春の若菜を摘んでいらっしゃるむすめさんよ・・・」。と。そして、問う。「家の在処をおっしゃい、そしてその麗しき名をおっしゃい。」と。太古のこの国にあって、男が妙齢の女に向かって名を問うことは即ち求婚を意味していた・・・が、娘は突然の求婚にはにかんでか、名を言おうとはしない。しびれを切らした帝王は自らその立場を明らかにし始める。「(そらみつ)大和の国はこの私がすべてを支配している。」。そしてさらに続ける。「そんな私から先に告げようか・・・家の在処も、そして名も・・・」と。

ここまで言われれば、娘は先んじて自らの名を言わずにはおれまい。かくして聖なる求婚劇はめでたく終了する。

この歌の後半部の「そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ」という部分は、今の私たちの目から見ればあまりに権威的で、求愛という観点からすればちょいと無粋に見える。それどころか自らの権威立場によって、相手の意思にかかわらず、女を自分のものとしようとする・・・そんな暴君的な帝王像が見え隠れしないでもない。和歌の書である万葉集の劈頭を飾るにはあまりに無粋な歌との誹りを免れえない。かような歌集に会ってはその冒頭を飾る歌が、その歌集の目指すところ・・・編集方針の宣言をも意味する。その位置に、かくも無粋な歌を配置することが万葉集の編者たちの意図であったとは到底思えない。

そこで、歌中の語句をもう少し詳しく見てみよう。まず「籠」「ぶくし」である。両方とも、対象たる娘の持ち物である。その持ち物を「み」という接頭語にて褒め称えている。

今風に言えば、「そこの君、そのバック・・・素敵だね~」なんて感じだろうが、ここはもう少し「み」という言葉を掘り下げる必要がある。「み」はいわゆる美称の接頭語であるが、この下に接続する語句には少々偏りがある。まず、地名として、「み」と接続するものは「み吉野」「み熊野」しかないことを注意する必要がある。いずれも古代の人々(現代においてもなお)にとって聖なる地である。他に「み心」「み言葉」と言えば、それは「心」「言葉」ともに聖なるお方のものであることは疑えない。さらにこの「み」が上につくことによってできた、「宮ミヤ(御屋)」「皇子ミコ(御子)」「命ミコト(御言)」などの例を考え合わせれば、この接頭語「み」はそれがつくことによって、その下に続く語句の聖性を表象しうる働きがあるといえる。(接頭語「み」について、さらに詳しくはここをクリック)

してみれば、この「み篭」「みぶくし」は単に「うつくしい」篭・ふぐしを意味するだけではなく、それを所持するところの娘の聖性をも意味する語になる。となれば、この娘はたまたま「この岡」でであった娘などではなく、「この岡」の地霊(すなわちその地の支配者)と関係のある「聖なる乙女」であると考えなければならない。そして、この歌の作者はその事実を踏まえて「菜摘ます児」と乙女に呼びかけるのである。「す」は奈良時代以前、尊敬の意を表す助動詞であった。つまり、この歌の作者雄略は眼前の若菜摘みをしている娘が「この岡」の地霊と結びついた聖なる乙女であることを充分に認識した上で言葉をかけているのだ。

そして雄略天皇自身もまた自ら告げるように、この国の国土を代表するべき聖なる存在である。つまり、この歌は聖なる存在同士が出会い、結ばれる「聖婚」を歌った歌なのだ。そして、その「聖婚」によってもたらされる繁栄は、単にその一組の聖なる存在の繁栄にとどまらず、この国の人々、ひいてはこの国の国土の繁栄そのものを象徴するものであった。

以上のようにこの歌を理解するとすれば、この雄略御製は我が国の国土繁栄を祝福したきわめてめでたい歌であるとの読みが認められよう。だからこそ万葉集の編者はこの歌でその劈頭を飾ったのだと言える。

ただ、この歌の作者が万葉集に示すとおりに雄略天皇であったかというと、少々疑義を挟まざるを得ない。上記のようにこの雄略御製は万葉集の劈頭を飾っているが、その次に配置されている歌が7世紀前半の舒明天皇の作となっているからだ。正確なところは把握しがたいが、雄略天皇の在位期間は5世紀の半ばから後半。ここに200年近い断層が存している。舒明天皇は初期の万葉歌人から見れば、親の世代に相当するので、事が正確に伝承されている可能性は高い。しかしながらその舒明御製もその作者は別人で、後に舒明天皇に仮託されたものであろうとする可能性の高さが指摘されているなか、それに先だってこれほどの時の断絶を抱えた歌について正確な伝承があったとは思えない。これもまた後の時代の人々が、この歌を雄略天皇の作であると仮託したものであろうと考えるのが無難である。けれども、そのことでこの歌の持つめでたさが消え去ることを意味しない。この歌を雄略の御製と伝承した人々にとってそれは紛れもなく真実そのものであったからである。実際にそうであったかどうか・・・よりも、その歌を享受していた人々がそうだと信じていたかどうかが、ここでは問題なのだ。となれば、この歌に詠み込まれた「この岡」は、雄略の泊瀬朝倉宮に周辺の「岡」とは言い難くなる。つまり、この歌からは、万葉の故地としての雄略の泊瀬朝倉宮の所在を知ることはできないのである。
ならば、泊瀬朝倉宮はどこにあったのか・・・

この点については以前述べたことがあるように、この白山神社から西に750mの地点にある脇本遺跡が、その候補としては最も可能性が高いと私は考えている。遺跡の場所は初瀬川に沿った東西に長くのびた初瀬川北岸の河岸段丘上。この地にて1980年代から行われた発掘調査において、4世紀後半・5世紀後半・6世紀、7世紀後半の遺構が見つかった。なかでも雄略天皇の在位したとされる年代の5世紀後半には、この地域で大規模な土木工事を行い、東西200m以上、南北100mに及ぶ平坦地を造成されていたことが分かっている。その上、二間×四間の南北に伸びる建物跡が検出され、その南にもそれと棟を揃えていたこと思わせる建物跡の一部も発見されている。地勢的に考えても、初瀬の地にあってここが唯一霊山三輪山の頂が見える場所であり、、さらには大和盆地の生誕から河内との国境の山々も見渡せる絶好の立地であるという事実は、少なくとも白山神社が初瀬朝倉であったとの保田の考えに訂正の必要を生じせしめるであろう。

さて、ここで話はちょいと戻る。

上で述べたように、この歌の作者は実のところ不明であって、それを後の人々が雄略に仮託したのがこの歌である。ならば、その仮託されたのがなぜ雄略でならなければならないのかという疑問が生じてくる。

雄略天皇古事記日本書紀において、歌をもって多くの女性と関係を持った天皇ともされている。女性と関係を持つということは、その出身である豪族と結びつき、勢力下に納めていった事実を物語化したものと考えることができる。さらにはその即位に関わって多くの血が流れている。即位後においても多くを処刑し、大悪天皇などとも評されている人物が雄略天皇である。ただしこれを反対の立場から見れば、それほどの武威を所持し、朝廷の権威を高からしめた存在であると見ることができる。すなわち組織としては未だ確立されたものではなかったにしろ、歌をもって、さらには武威をもって、ヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な時代がこの天皇の時代であったと古代の人々が捉えていたのだろう。

となれば、その御製が万葉集の劈頭を飾る歌となって何の不思議もない・・・


いつにもまして長々とした文になってしまった。初めに述べたように白山神社は一度訪ねていたいと思いながら、なかなか思いがかなわないでいた神社だ。自動車で行くには周囲に適当な駐車スペースはなく、歩いて行くには少々遠すぎる・・・そんな理由からである。それを今回少々無理をして出かけたのには理由がある。

実は、ある集まりにおいて私の地元である桜井と万葉集について話をせよとのご依頼を賜ってしまったのである。その方はひょんな事からこの三友亭雑記において、私が桜井のあちらこちらについて、あるいは万葉集についていい加減なことを書き散らしているのを目にされたというのだ。

自信はないが、断る理由も見当たらない。他人様の前でお話しする以上、そうそういい加減なことばかりは言っていられない。これまでここに書いてきたいい加減な部分も一度きちんとした形で整理するにいい機会である・・・ということで、長谷寺の舞台から飛び降りるような覚悟で、「えいっ」とばかりに引き受けてしまった。

少々の後悔はあるが、もう引き下がれない。

ということで、ここからしばらくの間は今日も含めて、そのための原稿作りといったふうな内容の記事になってくる。多くの場合、これまで書いてきたことの練り直しということになって、これはもう前に読んだぞ・・・というような記事の連続になってしまうかもしれない。ただ、上に述べたようにきちんとした形で整理することがその目的にあるわけだから、わずかばかりながら以前は触れることのできなかった事実がそこにはあるかもしれない。

もしよければ、私事以外のなにものでもないこれからの私の作業におつきあいいただいて、疑問に思われたところ、不十分と思われたところがあればお教え戴きたいと思う。