大和逍遥   

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味酒 三輪の山

三輪村(現在の桜井市三輪)の東、初瀬村の西、孤峰峻抜にして林木青葱たり。眺望群山に異なり、春日の三笠山と相比すべし。

とは、この国の歴史地理学の先駆けを成すとも言うべき吉田東伍の三輪山評である。高等教育を受けることなく、ほぼ独学で学んだ彼は、13年かかって『大日本地名辞書』11冊を完成した。その規模たるや、原稿の厚さ5m。質量とも古今未曾有の大地誌である。上記の引用はその三輪山についての項のほんの一節である。

三輪山は、奈良県北部奈良盆地の南東部に位置する標高467m強、周囲約16kmのなだらかな円錐形の山である。古くから(縄文時代からとも、弥生時代からとも)の信仰の対象であったこの山の周辺には、古墳時代に入ると次々と巨大古墳(行灯山古墳・渋谷向山古墳箸墓古墳)が作られた。この一帯を中心にして発生したと考えられているヤマト政権の初期の三輪王朝の神宿る聖なる山であった考えられており、古事記日本書紀にもこのことを物語る伝承が多く収録されている。

このように神宿る山であった三輪山は、山そのものが神体であると考えられ、神官や僧侶以外は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされ、時代が下った江戸時代においてもなお、その伝統を重んじた江戸幕府は、厳しい厳しい政令を設け、その入山には麓の平等寺の許可が必要とされた。明治に入っては、「入山者の心得」遵守すれば誰でも入山できるようになったが、その聖性は未だこの山に近づく者を以てして、襟を正さしむるに充分である。

さて、上記のように三輪山は初期のヤマト政権にとって、きわめて重要な位置を占める神山であった。時代が下り、宮処がその山麓から磐余・明日香に営まれることが多くなってからも、人々の信仰を集めてやまない山であったこと、この山が万葉集に多く詠まれていることからも窺える。以下、その中でも特に有名な額田王の作について語ってみたい。

額田王下近江國時作歌 味酒(ウマサケ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(マ)に い隠るまで 道の隈(クマ) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや 反歌 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや 三輪の山は、奈良の山々の山間に隠れるまでも、道の曲り目が幾重にも重なるまでも、つくづくとよく見ながら行きたいのに。何度も眺めやりたい山なのに、無情にも、雲が隠すなんてことがあってよいものだろうか。 三輪山を、まあそんなふうに隠すものか。せめて雲だけでも情けがあってほしい。隠すなんてことがあってよいだろうか。 右二首歌山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江國に遷す時に三輪山を御覧(ミソナハ)す御歌なり、といふ。日本書紀に曰はく、 六年丙寅の春の三月辛酉の朔(ツキタチ)の己卯に都を近江に遷す、といふ。

額田王万葉集巻一・17/18

ここの語句については、文末の中を参照願いたい

斉明天皇の七年一月(661)、百済救援のため天皇をはじめとした一行は九州へと向かう。その七月、斉明天皇崩御天智天皇の称制が開始される。2年後の天智二年(663)、白村江の戦いにおいて倭・百済の連合軍は新羅・唐の連合軍に大敗。百済の滅亡は決定的なものになる。その後天智天皇は唐・新羅による報復と侵攻に備え、北九州の大宰府の水城(ミズキ)・西日本各地に古代山城などを築き、北九州沿岸には、防人(サキモリ)を配備した。そして最終的には都を近江に遷すことで防衛体制の強化を狙った。この歌は、その時のものと考えられている。

大和を離れ、それまで都の築かれることのなかった近江に都を遷すことについては抵抗も多かったが、加えて、長く皇室の守護神であった大物主神の鎮座する三輪山を捨て去ることをも意味したことを忘れてはならない。明日香の地において日頃慣れ親しんだ三輪山を見ることができなくなる人々の悲しみは一入であったことだろう。くわえて、今遥かに望む三輪山は、雲に隠れている(あるいは隠れようとしている)。その様が一行には大物主大神が、この遷都に対して怒っているように見えたのだろう。なんとしてもなだめすかさねばならない。これまで長く皇室の守護を司った神、大物主大神の守り無くしては、この遷都がうまくいくはずもない。額田王は大物主大神に対して、その怒りを鎮めるよう懇願する。その思いが「心なく 雲の 隠さふべしや」「雲だにも 心あらなも 隠さふべしや」に表されている。

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ただ、腑に落ちないのは「 道の隈 い積もるまでに」の一節である。当時明日香から、大和盆地の北部に向かって「上つ道」「中つ道」「下つ道」の街道はできあがっていたと思われる。南北に貫く直線道である。しかるにこの表現から受け取れる道は山に沿って曲がりくねった道である。もちろん、その上にある「奈良の山の 山の際に い隠るまで」の句によれば、この「道の隈」は平城山のそれであろう。が、その「道の隈」が「い積もるまでに 」と続くことを考えれば、それは奈良坂に存する「道の隈」のみではなく、そこに至るまでの「道の隈」をも指し示すと考えた方が穏やかであろう(奈良坂までくれば、そんなにくねくねと曲がる前に三輪山は見えなくなってしまう)。額田王一行は(すなわち天智天皇一行)、曲がりくねった道を通って奈良盆地を北上したと考えなければならない。ならばその道は・・・

おそらくはそれは大和盆地東端の「山辺の道」であろう。まっすぐに整備された街道があったにもかかわらず・・・である。これはどうしたわけであろうか・・・

それにはこの日の空模様が関わっている。三輪山に雲がかかっている(あるいはかかろうとしている)以上、この日が晴天であることはあり得ない。晴れた日に雲に隠れるほど三輪山は高い山ではない。すなわち、それほどに雲が低いと言うことだ。三輪山の麓に住まいする私の経験からいっても、三輪山がこのような状態にあるのは、現在雨が降っているか、雨上がりの直後である。大和盆地はかつて湖(古代奈良湖)であった。

約 150~100万年ほど前に起きた大規模地殻変動による奈良盆地は隆起のほか、様々な理由により水が引いた後も長く湿地であったこと、弥生時代の遺跡の配置からも知ってとれる。王権の伸長とともに開拓され、人の住める場所は増えて入ったが、雨降りともなればいかに整備されたものとはいえ、そこを通る道はひどくぬかるんだことであろう。となれば、通るべき道は水はけのよい山沿いの高地を通る道・・・「山辺の道」・・・ということになる。道は山沿いに入り組んでいる。その奥に入り込めばその山並みの南端に位置する三輪山の姿は見えなくなる。更に北上・・・・道は山裾のはり出た部分に至る。三輪山は再び視野に入ってくる。それが「 道の隈 い積もるまでに」であったのだ。いったんは視界から消えた三輪山が再び視界に戻るたび、一行は振り返り、三輪山を振り仰ぐ。これを何度も繰り返しながら平城山に至った。今度こそ雲が晴れてくれていないかと・・・

そして平城山。ここを越えれば、もう三輪山の姿を見ることは出来なくなる。三輪山を見放け、思いを馳せるには最後の機会だ。そして大物主神の怒りを鎮めるにはこれが最後の機会だったのだ。

 


<語注>

・・・味酒・・・「三輪」と、その別名の「三室(ミムロ)」「三諸(ミモロ)」にかかる枕詞。神に供える酒や、それを醸造する瓶(カメ)のことを「ミワ」と呼んだことに由来するという。

・・・三輪山・・・上述参照。

・・・あをによし・・・「奈良」「国内(クヌチ)」にかかる枕詞。奈良に顔料の青丹を産出したことがその由来とされているが、定かではない。「なら」に続けたのは顔料にするために青丹を熟成(ナラ)すところからきたともいう。また、別には奈良の都の建物が「青」と「丹(赤)」に彩られていたからともいう。

・・・つばら・・・詳しいさま。十分なさま。ここでは大和を離れるにあたって、崇神天皇の昔より皇室を守護する神と考えられていた大物主神の鎮座する三輪山を最後の最後まで充分に見続けていたいという思いが込められている。

・・・隠さふべしや・・・「隠さふ」は動詞「隠す」に反復継続の意の「フ」がついたもの。「べしや」は「するべきであろうか・・・いやそうであるはずはない」との反語的な感慨がこめられている。そこには三輪山を隠し続ける雲に対しての抗議の意味があるのだろう。

・・・心あらなも・・・「情けがあってほしいものだ」の意。

<左注について>

万葉集癖読「三輪山を しかも隠すか」参照・・・なお、今回のこの歌に関しての記述の多くは、この一文によったものである。

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