大和逍遥   

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降る雪は あはにな降りそ

但馬皇女(たじまのひめみこ)薨後穂積皇子(ほづみのみこ)冬日雪落遥望御墓悲傷流涕御作歌一首 降る雪は あはにな降りそ 吉隠(よなばり)猪飼(ゐかひ)の岡の 寒くあらまくに 降る雪よ、そんなに降ってくれるな。吉隠(よなばり)猪飼ゐかひの岡は寒いだろうから

穂積皇子万葉集巻二・203

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穂積皇子・・・生年不詳 - 和銅8年(715)・・・は、奈良時代の皇族。天武天皇の第五皇子である。最終の官位は一品・知太政官事。当時生存していた天武天皇の皇子として最年長たるこの皇子の政治的な重みを示すにふさわしい官位である。前半生は正史において、持統朝以前は持統天皇5年(691)に500戸を与えられたこと以外その事跡は記されてはおらず、その頃のこの皇子の動向を知るには、万葉集に描かれた彼の姿から髣髴するしかすべはない。

時代は下り、大宝年間以降は何度か正史に名を表すようになり、大宝2年(702)、持統太上天皇崩御に際しては作殯宮司を任じられ、さらに慶雲2年(705)には知太政官事に任ぜられ太政官の統括者となった。霊亀元年(715)、位階は一品に達するが、まもなく薨去した。晩年に大伴家持の叔母であり義母の歌人伴坂上郎女を妻としていたことも最後に申し添えておこう。

・・・あはにな降りそ・・・「あはに」は「そんなに(沢山)」。「な降りそ」の「な~そ」は禁止。「降ってくれるな」の意。

・・・吉隠(よなばり)猪飼(ゐかひ)の岡・・・「吉隠」は桜井市吉隠()。 初瀬の峡谷の奥地で、同市初瀬と宇陀郡榛原(はいばら)との中間の山地。「猪飼()の岡」は吉隠()北東の角柄(つのがら)山かという説がある。但馬皇女()墓所

題詞から窺うに、但馬皇女が世を去った後のある冬の日、雪が降る中、明日香からははるかかなた吉隠の方角を見つつ、そこに葬られた皇女の墓所に思いを馳せて詠んだ歌と理解できる。南都も悲痛な歌だが、作者の優しさが窺い知れるいい歌だ・・・と私は思っている。

ところで、穂積皇子がなぜこの歌を詠んだのかという制作の動機が、但馬皇女とのかかわりを含めてここで語られるべきであろう。そのためには万葉集に残された但馬皇女の歌を紹介しなければならない。

但馬皇女・・・生年不詳 - 和銅元年(708)・・・は、天武天皇の皇女で、母は氷上娘であるが、その但馬皇女の死に際して穂積皇子はなぜかくも悲痛な歌を残したのか・・・

但馬皇女高市(たけち)皇子宮時思穂積皇子御作歌一首 秋の田の 穂向(ほむ)きによれる 片寄りに 君に寄りなな 言痛(こちた)かりとも 秋の田の穂が一方向に向いて頭を垂れるように私もあなたに寄り添いたいと思います。どんなに人のうわさが激しかろうとも・・・

但馬皇女万葉集巻二・114

題詞から察するに但馬皇女は、当時高市皇子の妻であった。高市皇子はその頃太政大臣。政界の重鎮である。ずいぶんと年の離れた夫婦であったらしい。もちろん高市が年長である。そんな、夫婦生活に満足できなかったのだろうか。但馬皇女は他の男に恋をする。 相手は後に知太政官までに昇進する若手政治家である。その頃から将来も嘱目されていたかもしれない。これを、今の世に置き換えてみよう。政界のトップたる人物が若い奥さんをもらった。けれども、その年の差ゆえか、奥さんはその夫婦生活に満足できない。そして、若手注目株の政治家と恋に落ちる・・・これがもし世間に知れ渡ってらどうであろうか。女性雑誌はもちろんだろうけど、写真雑誌や、その他の雑誌も放ってはおかないだろう。そして・・・但馬の恋は世間に知れ渡ることになる。

おそらく、直接、間接問わず彼女の耳には非難の声が入ってきたであろう。興味本位の目が向けられていたであろう。 夫、高市皇子の対応も興味あるところだが、ここは記録が無く、どうであったかは簡単に想像できない。このような状況におかれても但馬は一向に気にしない。「言痛かりとも」の一言で周囲の抵抗の全てを切り捨ててしまう。あるいは、その抵抗が彼女をいっそう燃え上がらせてしまったのか。

こうなると、困ってくるのは当時の権力者、持統天皇である。この但馬皇女の夫は壬申の乱の英雄で、多くの心を掴んでいる高市皇子天武天皇の長子ではありながら卑母の出自ゆえ皇位には遠かったものの、太政大臣としての地位は揺るがない。また、前述の通り、穂積は天武天皇の第五子。この天武の皇子・皇女同士のスキャンダルを打っ棄ってはおけない。筋として、高市・但馬の関係は維持されなければならない。かといって、穂積の立場も守ってやらなければならない。

結局・・・穂積に、近江にあった祟福寺に一時身を隠させることになる。おそらくは祟福寺の法会に勅使の形で派遣し体裁を取り繕ったのであろう。・・・このスキャンダルを咎められ、僧にされたという説もある。・・・・・・ しかし、但馬皇女はそれでもだまってはいない。穂積が近江に向かった後、かく歌った。

勅穂積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首 (おく)れ居て 恋ひつつあらずは 追ひしかむ 道の(くま)みに (しめ)()へ我が背 後に一人残って恋い焦がれているよりは貴男を追っていきたいと思います。道の曲がり目ごとに道しるべを着けて下さい。あなた・・・ 但馬皇女万葉集巻二・115

帰ってくるのなんて待ってはいられない。こっちから会いに行こうというのだ。彼女が実際に近江まで会いに行ったのかどうかは分からない。考えにくいことではあるがこの配置に従えば、或いは逢いに行ったのかも知れないと、少なくとも万葉集の編者は考えていたのかもしれない(あるいは、物語化しようとしていたのかもしれない)。そのこともあってか、更に皇女は歌う。

但馬皇女高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首 人言(ひとごと)(しげ)言痛(こちた)み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る 人のうわさがうるさくて、生まれてこの方渡ったことのないまだ暗い朝の川を渡るのです。

但馬皇女万葉集巻二・116

もちろん、そんな思いをしてまでやってきたのは穂積皇子のもとであろう。夫、高市皇子のもとをこっそり抜け出し、周囲の目を盗むように夜陰に乗じて穂積のもとにやってきた。この歌が、先日の記事の歌の先に詠まれたのか、後に読まれたのかは分からない。いずれにしろ、それほどこの二人のスキャンダルが宮中に知れ渡っていたのだろう。

以上の但馬皇女の恋歌を読んで「じゃあ、相手の穂積皇子は、この但馬皇女の愛にどう応えたのか。」と思う向きもあると思う。その相手である穂積皇子はその恋情にいかに応えたのか・・・

万葉集を見るうえでは残念ながら、その期待に反して、この三首の情熱的な恋唄に返歌をものしていない。

・・・が、それはおそらく情熱的な但馬皇女に穂積皇子が何の思いを抱いていなかったことを意味しないのは上件の「但馬皇女()薨後穂積皇子()冬日雪落遥望御墓悲傷流涕御作歌一首」を読めば明らかであろう。この歌から高市皇子の死後にこの二人が結ばれたのだと理解する向きがあるが、確証は持てない。また平城京跡から、彼女が独立した宮(平城京以前のもの、皇女は平城遷都の前に世を去っていた)を持っていた木簡が発見されているらしく、ここでは通常の理解に従っておく。

更には次の一首なども、穂積皇子の但馬皇女への思いを示すものと見ていいのかもしれない。

家にある ひつに鍵さし 収めてし 恋ひのやつこが つかみかかりて 家にある大きな木箱にわざわざ鍵をしてまで仕舞っておいたはずなのに、あの恋のやつめが、この私に掴みかかってきたのだよ・・・

穂積皇子万葉集巻十六・3816

この歌は穂積皇子が晩年宴会のおりによく口ずさんだ歌だという。あるいは、彼の作ではなく、単にお気に入りなだけだったのかもしれない(この辺りは余り自信が無く、お叱りを受けるかも知れないが)。この歌が、穂積皇子と但馬皇女の悲恋に関係するような記載は、これもまた私の狭い知識の範囲ではあるが、万葉集の中にはない。けれども、どうしてもこの歌の陰には皇子の若き日の悲恋があったように感じてしまう。これは、私だけで僻が読みではないだろう。少なくとも、そのように考えた方が、この歌を口ずさむ穂積皇子の心により迫った解釈になるのではないかと思う。

ところで先に穂積皇子が但馬皇女の激烈な恋歌に何の返しもしてはいないと述べた。けれども次のような2首が万葉集巻八にはあることを言っておかなければちょいと不親切に過ぎるであろう。

穂積皇子御歌二首(の内の1首) 今朝の朝明(あさけ)雁が音聞きつ春日山もみちにけらし我が心痛し

万葉集巻八・1513

但馬皇女御歌一首一書云子部王作 言繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを 一云 国にあらずは

万葉集巻八・1515

同じ巻の八に2人の歌がならんで配されている。とりようによっては、穂積皇子の「我が心痛し」の句は、但馬皇女との恋によっての労苦を指しているようにも見える。そうして、やや弱気になっているような穂積皇子の歌を見た但馬皇女が「ならばいっそのこと、どこかに行ってしまいましょう・・・」とはっぱをかけているようにも見える。

けれどもそう読むことは難しい。なぜなら、穂積皇子の歌は「春日山」が詠まれているからには少なくとも平城遷都の後の作。但馬皇女はその前に世を去っている。これはあくまでも、何らかの折に詠まれた皇子の歌の後に、二人の関係を知っている巻八の編者が但馬皇女の歌を配したのだと理解している。もちろん、編者の理解が私とは違って意図的に二人の関係を反映させようとしたのかもしれないことまでは否定しない。

最後に蛇足ではあるがもう1首紹介しておく。

大伴坂上郎女跡見(とみ)田庄作歌二首(の内の1首) 吉隠の猪養の山に伏す鹿の妻呼ぶ声を聞くが羨しさ

万葉集巻八・一五六一

跡見とは一説には桜井市外山(とび)の辺りかという。 吉隠を中心として 西は外山から 東は宇陀市榛原区におよぶ一帯の地とみる説もある(他にもいくつかの説あり)が、この歌を理解する上では、吉隠が見える位置でなければならないことだけは確かであろう。大伴坂上郎女は穂積皇子の晩年の妻であること、ここでもう一度思い返していただきたい。万葉集において鹿は妻を恋うて鳴くもの・・・ここで仮にこの鹿をその夫、穂積皇子と置き換えてみよう・・・はてさて、その鹿はいったい誰を思い鳴いているのか・・・ちょいと興味のあるところである・・