大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

纏向遺跡・・・5

<ベニバナ花粉発見の意義>

 

縷々述べ来たったように、この纏向の地がいわゆる「倭」の首都的な地域であった蓋然性は極めて高い。

http://soramitu.net/zakki/?cat=46&paged=3・・・1

http://soramitu.net/zakki/?p=351・・・2

http://soramitu.net/zakki/?p=355・・・3

http://soramitu.net/zakki/?p=356・・・4

纏向遺跡1~4)

その中で推定される遺跡の中心部から、3において述べた纏向大溝にむけて注がれている幾つかの溝のあとの一つからベニバナの花粉が発見された。ベニバナは日本はおろかアジアの諸地域には自生が確認されていない植物であり、意図的に栽培されたのでなければ、その場所には存在し得なかったものと考えられている。

これまで、日本においてこのベニバナの花粉が発見された例は、古くとも6~7世紀であった。その豪華な装飾品の発見で話題になった藤ノ木古墳。そして、斑鳩に移る前に聖徳太子が住んでいたと思われている上宮遺跡の例がそれである。ところが、この溝からは、3世紀という極めて早い時期に、周囲一帯がベニバナ畑でなければ考えられないような濃度で、その花粉が検出されている。

ところがそのようなベニバナ畑がこの近くにあったことを示すような発掘はなされていない。とすれば、この遺跡の中心地域に、どこか他の場所からベニバナ染めの材料が運び込まれ、染色の営みがあったと考えるしかなさそうである。その材料がどこから運び込まれたものかははっきりしないが、当時おそらくはかなり貴重であったと思われるベニバナ染めがこの地域で行われていたと言うことは、ある興味深い事実を想起させる。

実は、例の邪馬台国論争で名高い女王卑弥呼以降、「倭」は数度、魏に使いを送っている。その際に、幾つかの貢ぎ物の中に青と赤との絹織物が上げられている。その赤の部分はおそらくベニバナで染めたものだと推定される。さきほども述べたように、この時期ベニバナの花粉が発見されるのはこの纏向遺跡の他にはない。少なくとも今の段階での発掘が示す事実からとの限定的なことではあるが、以上の事実が何を意味するかは、1~4で述べてきたことからも考え合わせれば、ある一定の推論を導き出すことが出来るであろう。

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