大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

広島に行く・・・呉にて、その1

呉の駅に降り立ったのは12時30分過ぎ、急いでタクシーに乗り合わせ、目的地を告げる。1時には海上自衛隊呉造修補給所工作部に隣接する呉基地係船掘にたどり着かなければならない。毎週日曜日の1時からこの係船掘に停泊中の艦船のうちの一隻が、その内部まで公開されているのだ。「紅旗征戎吾が事に非ず。」がモットーの私にはいささか不似合な場所ではあるが、個人的な好みでせっかくの慰安旅行の雰囲気を壊してはならない。そんなことは臆面にも出さずタクシーに乗った。

タクシーの窓から呉の港の景色を眺めていると、目的地に近づくにしたがって巨大なクレーンがいくつも見えるようになってくる。造船の町、呉の代表的な風景なのであろう。

そんなクレーンの林の中に巨大な鉄製の覆いに囲われたドックが見えてきた。覆いの鉄は赤くさびた部分も多く見られ、その歴史の古さを物語っているように見えた。なんでもタクシーの運転手さんの話によれば、かつて呉海軍工廠の一施設であったこの覆いは、かの戦艦大和を建造する為のものであったらしい。何もかもが秘密にされた大和の建造において、その建造の過程はすべて秘せられなければならない。当時、この国の敵国と想定された国々はおろか、自国の民にまですべては隠されていたのである。

その果てがあの忌まわしき大戦であったとすれば、どうやら国が国民に対して秘密を持とうとしたその結果は、その国の人々にとって良いものをもたらさないようである。そんな反省を常に心に保ち続けるためには、こんな施設が保存されていることにも一定の価値がありそうである。ただ、問題なのはそんな遺物に、過去のこの国の栄光(私にとってはとても栄光には思えないが)を見て取る人々(就中、現宰相)が少なくないことである。無論、私とてこの国の民として、当時のこの国が世界に冠たる造船技術を持っていたことを誇らしく感じないことはない。しかしながら、その技術が何の為に用いられようとしていたかが・・・いや、獲得することができたかが問題なのである.

さてタクシーは目的地に着いた。ここは本来、観光目的の場所ではないのだから、コインロッカーなどの施設は一切ない。旅の重い荷物は手にしたまま、受付を済ませ・・・係船掘の桟橋へと向かう。海上自衛隊呉造修補給所工作部からはおおよそ500mである。

桟橋に着くと、すでに多くの見学者たちが隊列をなしていた。その前に1人の自衛隊員の方がハンドマイクを持ってこちらに向かい、細々とした注意事項を話してくれていたが、居並ぶ見学者たちはそんな話を聴いているのやら聞いていないのやら・・・もうその先に見えている艦船に目をやり、口々に何かしゃべっている。

いよいよ時間である。桟橋は解放された。それまで行儀よく並んでいた見学者たちはたちまちに列を崩して桟橋へと足を踏み入れる。200m弱の長い桟橋の両脇にはいくつもの艦船が停泊していたが、解放されているのはその一番突端に停泊している護衛艦「・・・」(なにせ、この手の物には関心が薄いものだからわすれてしまった。)。

はてさてその感想は・・・

余り素直な感想をここに詳述すれば、必ずや多くの方の顰蹙を買うこと必定であるから省略するとして、それほどに関心の持てないこの場所に、たとえ職場の旅行だとはいえ何故のこのこついてきたのか、疑問を抱かれる方も少なからずいらっしゃるだろう。その時間、呉の街なかを散策し、お好み焼きなどをあてにビールなどを飲んでいることも可能だったはずだ・・・

けれども・・・私は此の場所に来たかったのだ。

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不本意にも、いくつか停泊していた艦船が映りこんでしまったが、桟橋から広島市の方角を眺めたかったのである。このアングルから広島市を見やった時、その町がどのように見えるのか確認したかったのである。

1945年8月6日、私の妻の父親は呉の町に暮らしていた。海軍関係の仕事をしていた建築技師の祖父とともに、戦時中は海軍の基地のある町を転々としていたのである。

そして、妻の父はその日の朝・・・彼方に見える山並みの向こうに異様な形状の雲がまばゆい光とともに、むくむくと湧きあがるのを見たのである。私はは見えぬその悪魔の雲を、その日の父が見たのと同じ距離、同じ角度で幻視してみたいと思っていたのである。

広島の駅から呉線に乗って、山が海に迫った海岸線を、幾つものトンネルを抜けて30分以上の時間を要してここまでやって来た。この二つの町はそれほどの距離と、いくつもの山に隔てられているのである。

なのに、その日父の目にはその雲が極めて巨大に見えたという・・・薄気味悪い光とともに。炸裂のその瞬間の閃光も確かに感じたという。これほどの距離と、いくつもの山々は、少年だった義父の目から、悪魔の造形を遮ることをしなかったのか・・・というのが、私の素直な感覚である。

原爆のその威力のすさまじさをわずかながらでも実感できたように思えた・・・

あまり興味の持てない艦船見学をそそくさと終え、私は桟橋の来た道を一人でとぼとぼと戻っていた。見学の対象になっていない艦船の上では若い自衛隊員の皆さんが、自らの船を掃除したり、手入れをしたりしていた。きれいな目をした真面目そうな若者ばかりである。静かなその瞳の奥には、必ずやこの国を・・・そしてこの国の民の安全を保障しようとの義務感が燃えさかっているのであろう・・・私は彼らが懸命に働き続ける姿を見ながら思った。そして、この国の宰相が・・・そしてその取り巻きたちが敵国と仮想している国々の若者たちもその思いはきっと同じはずだ。

私たちは決してそんな純粋な若者たちに悲しい銃火を交えさせてはいけない。それが私たちの様にこの世に生をむさぼってきた者たちの義務だ。そしてその義務を最も重く感じていなければならないのは・・・言わずと知れている。

この国を導いている「彼等」なのである。

私たちはここで確認しなければならない。

戦争はあくまでも外交の失敗なのである・・・政治の貧困の結果なのである・・・と。