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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

広島に行く・・・呉にて、3

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)での見学が終えた私たちは、道を隔てたばかりの場所に隣接したてつのくじら館(海上自衛隊呉資料館)へと見学の場所を移した。2004年まで現役として働いてきた潜水艦「あきしお」をその展示室の一部に取り込んだこの資料館は、潜水艦の発展と現況や掃海艇の活躍等に関する歴史に関する展示がなされ、そのことを通じて海上自衛隊の歴史を紹介するとともに、呉という町と海上自衛隊の歴史的な関わりについて紹介する事をその設立の趣旨とする。

展示についてあまり深入りしようとすれば先日の記事とあまり変わりのないものになってしまうのでここでは避けたいと思うが、この施設の中でふと想起した事柄だけ簡単に述べておきたいと思う。

それは・・・2階だったか、3階だったかの通路脇にあった窓からの眺めがそのきっかけとなった。丸い・・・そう大きくはない窓であった。その位置は低く、そこから外をみようとすれば身をかがめなければならないような窓であったが、私はふと思い当たり外を見てみようと思った。

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思った通りである。窓は広島の方角に向いていた。宣告、係船堀から見えたのとほぼ同じ山並みが、おそらくは「その日」はなかったであろう背の高い建物の間からちらちらと見ることができた。「その日」とは・・・いうまでもない。1945年8月6日である。

 

 

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写真は呉の町から見えたキノコ雲の様子である。この写真は、先ほどまで見学していたやまとミュージアムの展示品であるが、私はこの映像と今あるこの景色とを重ね合わせ慄然とした。下の方に見える山並みは、ひょっとしたれ先日の記事の、係船堀からのものと較べるのが分かりやすいかもしれない。そう高くはないといえ、いくつもの山がこの町と広島の町の間にはある。そして直線にしておよそ20kmという距離が今私が立つ場所と爆心地を隔てている。

しかるに、そこから幻視する原子雲は、あまりに巨大な姿をもって上空へと立ち上っていた。爆発直後の核反応により放出されたガンマ線やX線が空気中の原子と衝突することによって発生した火球は、ここ広島の場合、その直径が500mとも1000mとも言われている。太陽表面の温度を遙かに超えるとされるその火球の持つ高温は猛烈な上昇気流を生み、身の丈16000mの悪魔の姿を作り出したのであった。この雲の下に、広島の人々がどんな状況に置かれていたたかは、あらためてここで語る必要はないであろう。

前回にも述べたようにちょうどその頃、この呉の町には私の妻の父暮らしていた。まだ少年であったはずの義父の目に、それはいかに映っていたことであろうか・・・

その時の義父(そしてそれは義父だけではない)には、いくつもの山が隔てた先の広島の町がいかなる惨状にあったかはおそらく知るよしもなかったであろう。大変なことが起きているだろう事はたぶん感じていたであろう。巨大な原子雲はそう感じさせるに充分な不気味さを示していた。ただ、詳細はとなると・・・それまで人類が経験したことのない悲劇ゆえ、何も分からなかったというのが確かなところであろう。

この日8時30分には、爆心地から20kmの距離に守られた呉鎮守府から大本営に広島が壊滅した由の報告がなされた。続いて10時頃、あった第2総軍(本土決戦に備えて鈴鹿以西の維持を目的に設立された陸軍総軍)からは、船舶司令部を通じて被災の事実が大本営陸軍部に伝えられた。ここで「船舶司令部」からとあるのは、第2総軍司令部は爆心地から1,8kmと至近にあったためほぼ壊滅状態に陥り、宇品港に停泊していた陸軍艦船にその司令部機能が移管されたがゆえである。大本営は、昼過ぎに同盟通信からの情報も得、特殊爆弾により広島が全滅したと認識するにいたる。大本営は、政府首脳にも情報を伝え、午後早くには原子爆弾が使用されたとの可能性を結論付け翌7日15時30分に報道発表を出した。以下の一文である。

 大本営発表(昭和二十年八月七日十五時三十分) 一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり 二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり

 

「詳細目下調査中」とはまた大本営らしい文言ではあるが、そこに彼らの狼狽ぶりも感じ取れないことはない。そして、その大本営発表を受けての新聞報道が以下の一文である。

 六日七時五十分ごろB29二機は四国東南端より北進、香川県西部を経て広島市に侵入、焼夷弾、爆弾をもつて同市附近を攻撃の後反転、八時三十分ごろ同一経路を土佐湾南方に脱去した、このため広島市附近に若干の損害を蒙つた模様である  朝日新聞大阪版(昭和20年8月7日付)

広島市付近に若干の損害」とは、まことに笑止の極みであるが、大本営発表では「相当の被害」とある。また大本営発表では「新型爆弾」あったものが「焼夷弾、爆弾」と書き換えられてしまったことと同じ文脈にあったことだろうと思う。いくら報道統制の厳しき折であったとはいえ、当の大本営が「相当の被害」「新型爆弾」という言葉を用いているわけだから、そのまま伝えればいいだけの様に思う。現在から見れば考えられないような歪曲ではあるが、大本営に対する怯みが各報道機関にあった証左でもあろう(「現代から見れば」と、今は限定してみたが、その「現代」だって、ここ数年の状況を見れば、報道機関の怯みは、その頃に近づきつつあるように思えるのは私だけだろうか。)。

そして、この新聞報道は広島市内の報道機関がその被害により、新聞を発行することが不可能であったゆえ、数日遅れて大阪から配送された。すでに惨状を眼前にしていた広島の人々には如何に受け取られたことかは想像に難くない。