読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

広島に行く・・・宮島にて、2

IMGP3054さあて、大鳥居のたもとでのんびりとひなたぼっこを楽しむ鹿さんたちとも別れを告げ。私たちは海岸沿いの参道を東に向かう。このあたりの海岸線は有の浦という風雅な名で呼ばれているが、厳島神社に近いあたりは特に御笠浜とも呼ばれている。大鳥居から5分も歩いただろうか、参道はその先に春の日差しをきらめかせている小湾の地形にしたがって左に折れる。ちょうどその参道の曲がりぎわから厳島神社の壮麗な社殿が視野に入ってくる。

IMGP3009宮島は広島湾の最西端、広島市中心部からは約20kmの南西海上に位置する。北東に約9km、南西に約4kmの長方形に近い形で、そのぐるりは約30kmほどの島である。古くからその島の姿と、峨々たる山容を見せる弥山やその周囲の山々の姿に人々は神の存在を意識し、人々の自然崇拝の対象となってきた。

そんな宮島に厳島神社の創建されたのは、推古元年(593)のことであると社殿には伝えられている。当地方の有力豪族であった佐伯鞍職(さえきのくらもと)神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのがその始まりだというが、文献にその名を初めて見ることができるのは日本後紀の弘仁2年(811)7月己酉(17日)の条においてである(安芸国佐伯郡速谷神 伊都岐島神 並預名神例 兼四時幣)。

宮島の名はそこに厳島神社があるがゆえ、「宮」のある島ということから来たもので、本来の名は厳島である。厳島は「神に(いつ)く島」というのがその由来であるようだが、私にはこのお社の祭神の一柱である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)との関わりも見過ごせないような気がする。市杵島姫命天照大神素戔嗚尊天真名井(あめのまなゐ)で行った誓約(うけひ)の際に、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神(宗像三女神という)の一柱。西宮一民(新潮古典集成「古事記」)によれば、神に斎く島の女神(「イツク」が転訛により「イチキ」となった)というのがその神名の由来で、全国に散在する厳島神社(本社はこの宮島の厳島神社)の主祭神の一柱であるが、他に市杵島神社・市杵島姫神社との名の神社も多く存在し、先に述べた「イツク」→「イチキ」という音韻の転訛を考えれば、厳島≒市杵島とのラインも考慮に入れるべきであろう。ただ、このお社の主祭神市杵島姫命と明記されるようになったのは、室町時代以降のこと(「大日本国一宮記」)であり、ことは単純ではない。

鶏が先か卵が先かのような話になってきたが、ご存じのように平安時代後期の仁安3年(1168)に、佐伯鞍職の子孫である佐伯景弘がこのお社を崇敬した平清盛の援助により、今日のような廻廊で結ばれた海上の社殿を造営したのが現在我々が見ることのできる厳島神社の原型である。建永2年(1207)と貞応2年(1223)に火災で建物の全てを焼失しているため、現在残る社殿は仁治年間(1240~1243)以降に造営されたもの(本殿は元亀2年1571、客神社は仁治2年1241)であるが、清盛の時代に造立されたそれは、今見るそれと規模としてはほぼ等しいと考えられている。本殿以下37棟の内宮と、対岸の地御前に19棟の外宮の総称が厳島神社とするのが正式ではあろうが、一般に我々が厳島神社として意識するのは上の写真の範囲のものである。

本来、厳島は神の住む島として禁足地とされ、鎌倉時代頃までは外宮において主な祭祀が行われていたという。しかし、鎌倉時代末期から南北朝時代以降、禁を破り、社人、僧が住むようになった。戦国時代に入り社勢は徐々に衰退、毛利元就が弘治元年(1555)の厳島の戦いで勝利を収めて以降、毛利家の庇護の元、再び隆盛を見る。さらには九州遠征の途上にあった豊臣秀吉による大経堂(現 千畳閣)の造営などがあり、江戸時代にいたる。江戸時代には厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わい、現今の宿屋や土産物屋が立ち並ぶこの島の姿の原型ができあがった。