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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

広島に行く・・・宮島にて、4

振り返り本殿を見る。手前に見える黒塗りの基壇に朱塗りの高欄をめぐらされている部分が、高舞台。平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽がここで演じられている。舞楽の舞台としては最小のものだそうで、現在の舞台は天文15年(1546)、たなもりふさあきによって作られたもの。当初は組立て式だったものが江戸時代初期に現在のような常設の施設となっている。

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その先に見えるのが祓殿、そしてその先が拝殿・幣社・本殿となる。これらの施設に先述の高舞台、前回述べた平舞台、その平舞台の海側の左右に置かれた左右の楽房(舞台にて雅楽が奏上される際に楽人が諸楽器を奏する場)、そして左右門客神社本殿を併せたものの総称が本社となる。

一番奥に位置する市杵島姫(いちきしまひめ)湍津姫(たぎつひめ)田心姫(たごりひめ)宗像三女神)の祀られた本殿は、繊細かつ華麗な切妻両流造り。この本社は、屋根に神社の定番とも言える千木と鰹木を持たない。これは繰り返し述べているように、この厳島神社が神殿造りを模してつくられていることからくるもので、桧皮葺の屋根に瓦を積んだ仕様になっている。

現在の本殿は元亀2年(1571)、毛利元就によって改築されたもの。前回述べたように、この神社は建永2年(1207)と貞応2年(1223)の2度の火災で建物の全てを焼失している。そのため、現在残る多くの社殿は仁治年間(1240~1243)以降に造営されたものであるが、この本殿だけが元亀2年(1571)に改築されたのには少々訳がある。

それは・・・、天文24年(1555)のこと。この島を舞台に毛利元就陶晴賢との間に、戦国史において名高い合戦が繰り広げられた。厳島の戦いである。詳細はリンクを参照いただきたいが、この時の破れた陶晴賢側の死者は5000人近いとも言われ、聖域たるこの島はその血によって著しく穢れてしまった。その事をいたく畏れ多きことと感じた毛利元就は、血で穢れた砂や建物の材木をすべて削り取らせ、海水にて洗い清めたという。その際に激しく損壊した廻廊や本殿の一部を改修したのである。

さて本社内部である。

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緑色の透かし戸の手前、渡り橋の様になっている部分が幣社、その奥が本殿である。

ここに上記の三女神が鎮まっていらっしゃる。

私は丁寧にに2度頭を下げ、手を2度打った。そして再び1度頭を下げ、心のうちに静かに祈りを捧げた。広島と言う場所柄を考え合わせれば、その祈りの内容は自ずと知れて来よう。

さて、神社参りの本来の目的である主祭神への祈りを終えた私は、本社西側の廻廊を渡り、この三女神と別れを告げようとしていた・・・と・・・

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上のような建物が目に入った。

もうちょっと近づいてみよう・・・

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能舞台である。国内でも唯一の海に浮かぶ能舞台だそうで、重要文化財に指定されている国内5つの能舞台のうちの1つでもある。ここ厳島で能が演じられたのは、永禄11年(1568)の観世太夫の来演がその始まり、慶長10年(1605)には福島正則によって常設の能舞台を寄進された。現在の舞台と橋掛及び楽屋が建立されたのは、ここ安芸の藩主が浅野氏に代わって以降のことである。この舞台は海上にあるために、普通は能舞台の床下に置かれる共鳴用の甕がない。よって、足拍子の響きをよくするために、舞台の床が一枚の板のようになっている。

さて、見るべきものは見た。あとはこの(まろうど)神社・本社・を見下ろすように立つ大経堂(現 千畳閣)に向かうのみである。

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