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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

広島に行く・・・宮島にて、5

本殿に祀られた宗像三女神に別れを告げ、しばしの間、海上の能舞台に見とれた後、西へと延びた渡廊から上陸をする。ここで振り返って一枚。渡廊の屋根の優雅な曲線の上に見えるのが、これから向かうべき千畳閣と五重塔だ。

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本来ならば、この本社から西に延びた渡廊から上陸した時に正面に見えた大願寺についてお話しするべきなのだが、どうもその時の映像が見当たらない。仕方がないので今日のところは省略・・・と行きたいところなのだが、一つだけ・・・

大願寺の御本尊は大願寺の弁財天。弁天様だ。相模国江ノ島近江国竹生島とともに、日本三大弁財天の一つに数えられている。なぜここに弁財天かと言うと、厳島神社本殿に祀られていらっしゃる市杵島姫命本地垂迹説においては同一神とされているからである。この宮島の名物がしゃもじとなった理由の弁天さんはもちろんこの弁天さんのことだ。芸能の神である弁天さんの持つ琵琶の形をなぞって作られたのが、島の名物となったのである。

さて、私たちは厳島神社の裏手をまわり件の五重塔と千畳閣を目指す。

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一番上の写真でもわかるように、この二つの建造物は結構な高所にある。したがって、上の右の写真の様な、かなり急な階段を上って行かなければならない。

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そしてやっとこさ辿りついて、塔を見上げる。反りあがった各層の屋根の見事さはいうまでもないが、それぞれの屋根の五つの切っ先の結んだ直線もまた何とも言えず美しい。本来ならば、この塔の全容を写した映像もお届けするべきなのであろうが、敷地が狭く、どうにも距離が取れないので、このような映像だけで失礼する。

この五重塔は、応永14年(1407)の建立で、屋根は桧皮葺、和様・唐様を融合させた建造となっている。見ることはできないが、内部には彩色がほどこしてあり、内陣の天井には龍が、外陣の天井には葡萄唐草の模様が描かれているという。その壁には、迦陵頻伽かりょうびんがや鳳凰が極彩色で描かれているとのことだ。もともとは、ここに本尊である釈迦如来普賢菩薩文殊菩薩がいらっしゃったようだが、明治の神仏分離で、先に紹介した大願寺へ移されたのだそうだ。

そして、振り向けば千畳閣。これもまた距離がとれず、その全容をお届けすることが出来ない。

この建造物の本来の名は、豊国神社。千畳閣という異名の由来は、当然、その広さ・・・なんでも857畳の畳を敷くことが出来るのだそうな。豊国神社の名から皆さんも容易に想像できると思うが、この巨大建築を発願したのは太閤秀吉公。千部経の転読供養をするため天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊に建立を命じたものだそうだが、秀吉公の死去により未完成のまま現在にいたっているらしい。 明治時代に入って、秀吉公と加藤清正公が祀られるようになったという。

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奥に見える、お社にこのお二人が祀られているのだろうか・・・

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天井板が張られていないのは、先に述べたように、この建物が未完であるというのがその理由だろうが、上の様な絵馬がいたるところに飾られており、すこしもその不完全さを感じさせない。その数は・・・と思い数えはじめたのだが、途中でやめてしまった(笑)。小学校のことから数字に関わることが苦手であった私には、とても数えきれる数ではなかったのである。

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廊下もかくの如き広々としたもの。小学生であるならば、ここで徒競走でも行えそうなほどだ。

太閤秀吉公の権威は、中国地方の小島にもかくのごとく示されていたのである。

さて、この島で一通り見るべきものは見た。あとは船着き場に急ぐだけであるが、ここまで歩いてきて、いたるところに可憐な白い花を見ることが多かった。

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馬酔木である。

馬酔木は、春に大和の地の野辺を彩る花であり、奈良公園辺りにもたくさん見ることが出来る。さして私たちにめずらしいものではないが・・・広島のレポートがあまりにダラダラと続き、皆さんは既にお忘れになっているかもしれないが、この旅は3月初旬に行われたもの・・・大和にはまだ、このツツジアセビ属の常緑低木は花をつけてはいなかった。

風が強く、肌寒さを感じさせるような一日ではあったが、瀬戸内の温暖さを改めて思い知らされた思いがした。