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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

桜井初瀬の天神さん・・・下

怖~い、怖~いお顔の天神さんは、もともとはこのお社に御静まりになっていらっしゃった。

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もうちょっと、近づいてみようと思い、石段を登る。

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柵があって、門から先には進めないが、神殿に向かい合う一対の狛犬さんが気になった。

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もっとましな写真もあったはずだが、なぜか今、手元にこの一組の写真しか残っていない。左側は頭の一部が欠け、右側は影が濃くて頭の一部が見えなくなってしまっている。

申し訳ないが、どうしてもきちんとしたものを見たいとお思いの方は・・・仕方ない・・・ご自分で足を運んでいただきたい。近鉄長谷寺の駅から・・・15分も歩いていただければ、件の朱塗りの鳥居のところまでは辿りつける。そこからは・・・長い、長~い石段をのぼって・・・と・・・

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石段の下にも、上の様な狛犬さん。これは全身がちゃあ~んと映っている。映り具合は知れたものだけれども・・・

ところで、初瀬の観音さんのおわすこの地に、いったい何時ごろからこの天神さんが御鎮まりになるようになったのか・・・

天神さんがどんな神様でいらっしゃるかについてはここで改めて述べるまでもない。学問の神として知られる菅原道真公ではあるが、そのご先祖に当たる野見宿禰(のみのすくね)は、相撲取の祖。相撲を取るためにわざわざ出雲の地から召喚されたという。その彼が住み着いたからなのか、その地を出雲と呼ぶようになった・・・と聞く。その後に、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の際に、それまでのならいであった殉死の制を廃し、それに代えて埴輪を考案し・・・その功績で「土師(はじ)」の姓を賜った。その土師氏の流れの1つが大和は菅原の地に住み、菅原の姓を名乗るようになった。(菅原古人(ふるひと)が朝廷に願い出て延暦9年(791)に改姓。古人はその後遣唐使に従って唐に渡るほどの知識人)

つまり、天神・・・菅原道真公のルーツは初瀬の地にあったのだから、この地に道真公が御鎮まりになっていたとしても何の不思議もない・・・というよりも、むしろそれが必然とでもいうべきであろう。以下、この神社にまつわる話を二つ・・・

それは寛平年間(889~898)のこと、一人の木こりが與喜山(よきさん)で仕事をしていた。彼が小屋の中で休みをとっていると、どこからか「これを祀れ」という声が聞こえ、同時にその小屋の中に何かを投げこまれた。いぶかしく思いつつ彼がその「何か」を確かめると、それは一体の木像であった。木こりはちょうどその時に長谷寺菅原道真公が参詣に来られていたのを知っていたので、その像は公の御姿だと信じ大切にお祀りしたのだという。 その像が今もなお当社に現存する木造神像だと伝えられている。
さらにもうひとつ。
この初瀬の里に神殿太夫武麿という人がいた。長年修行を積んだ高徳の人である。 天慶9年(946)の9月18日の明け方、武麿は高貴な老人の夢を見た。その二日後のことだ。武麿の家の前の石の上に高貴そうにみえる老人が座っていた。 老人が長谷寺へ参詣に向かうというので武麿もそれについて行った。老人は川で禊ぎを済ませた後、十一面観音を参り、瀧蔵権現に参る。すると一転にわかにかき曇り、黒雲がその老人包んだ。 黒雲が晴れると・・・なんと老人は立派な衣冠装束姿に身を変えていた。そして「私の名は右大臣正二位天満神社菅原道真である」と名のる。さらには「私はこの良き山に神となって鎮座したいとおもう。」と語り、 言葉の通り與喜山に鎮まった。 これが與喜天満神社のはじまりであるという。 與喜(・・)という神社号は、瀧蔵権現が道真公の神霊に「良き(・・)(ヨキ)地」であるとおっしゃったからである・・・2年後の天暦2年(948)7月、武麿は道真公のお祀りする神殿を建立する。 これが與喜天満神社の創祀だという・・・