大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

纏向遺跡・・・6

<対外的な位置づけ>

1997年から翌年にかけて行われた調査の過程で奈良県天理市は柳本に位置する黒塚古墳から大量の三角縁神獣鏡が発見された。この発見に際して、邪馬台国畿内説を唱える学者は、これで邪馬台国畿内にあったことは決定的になったと考え、、九州説を唱える人々からは、それを是認しない意見が数多く出された。その詳細について語ることは私の力には及ばない。しかし、「モノ」が暗示する事実はについてそう簡単には否定できないことは確かであろう。以下、既述以外の纏向遺跡より出土した「モノ」について知る限りを述べてみたい。

もし、今まで述べてきたように纏向が「倭」の首都だったとして、「倭」が隋との交流を持っていたことから考えると、その交流の証拠となる「モノ」が存在しなければならない。そのひとつとして、鐙(アブミ)の発見がある。鐙とは馬に乗るときに足を乗せておく道具だが、これがこの地域最大の古墳である「箸墓」の濠あとから発見されている。

ご存じのように馬は日本には原生しなかった動物で、古墳時代後期に大陸から渡来した生き物であったとされる。このことが例の騎馬民族制服説の根拠ともなるのだが、ここにそれに先立つ3世紀中盤の古墳からに鐙が発見されたと言うことは、いったいいいかなる意味を持つのか。

馬の存在がなければ鐙自体意味を持たないものになるのであるから、少なくともこの地域に、その数の多寡はともかく「馬」がいたことを意味すると考えるのが穏当であろう。一般に馬の伝来は、その骨、馬具、馬型埴輪が4世紀末から、5世紀初めの古墳から出土されることが多いことから、この時期に日本に伝来したようにも考えられている。しかしながら、この箸墓からの鐙の出土はそれに先立つこと100年以上前の馬の伝来を証明するものになる。

その伝来のあり方としては、大陸との対外的な交渉の中で贈呈品として伝来してきたものと考えるのが妥当といえるであろう。ならば、その他国からの贈呈品が纏向遺跡に関係の深い箸墓の周辺から出土したということは、つまり、この場所こそが王のいた場所であり、その王が対外的な交渉を行っていたからこそ、鐙がこの場所から発見されたのだと考えることを指示する。

さらにもうひとつ。この地域で発掘される鏃(ヤジリ)についてである。基本的に日本で作られていた鏃の断面は菱形のものが多い。が、この纏向遺跡で発掘されるものはバラエティーにとんでいて円形、正方形、三角形のものが多く見られる。これは大陸に多く見られる形のものだ。しかも木製だ。

同時期、すでに日本において銅製の鏃が多く作られている。纏向遺跡のように文化の発達した場所においてまだ木製の鏃しか作られなかったことは考えにくい。この木製の鏃の意味するところは何か。おそらく、実用性の低いこの木製の鏃は祭祀用のものだったのだろう。だからこそ、その形態は進んだ文化を持ったあこがれの対象である大陸のものと同じ形式のものを用いたものと思われる。そして、そのような大陸的なものを模倣しうる場であったこの纏向の地は、海外の文化がしきりに流入してくる場所であったに違いない。だとすれば、やはりこの地に「倭」の首都が存在していたと考えるのが妥当というものであろう

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