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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道一日旅行・・・2

天理駅から最初の目的地の祝田(いわいだ)神社までは徒歩で15分ほど。まずはJR桜井線(万葉まほろば線)の線路に従ってしばらく北上し、ちょいと右の折れた先に祝田神社はある。

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この辺りは田部(たべ)と呼ばれている地域であるが、田部は大和王権の直轄地である屯倉(みやけ)が所有するところの御田の耕作に従事した人々(部民)をいう。

冬十月、諸国に令して田部屯倉を興つ。

日本書紀景行天皇57年

「祝田」神社という名称は、この御田に関する名称かと考えられる。祭神は定かではなく、豊受媛命(とようけひめのみこと)とも日本武尊(やまとたけるのみこと)ともいわれ定かではない。由緒については、境内に由緒書きらしいものが見当たらず、外部の資料に頼るしかない。

江戸中期の地誌・大和志(1734)には「祝田神社 田部村に在り、今、天神と称す。」とあり、延喜式神名帳山辺郡の「祝田神社」にあてている。祝部は古代の神官のことで、石上神宮神職に関係する社であろうかとも考えられる。

・・・が、石上神宮の所蔵の石上布留神宮妙抄(1720)によれば現天理市田町(田部町から南に2㎞弱)に祝田神殿があり、 法林寺が所蔵するところの田村郷由緒書によれば、田町は石上神宮祭主代々の居住の地であるらしいことを考えると、延喜式神名帳山辺郡のいうところの祝田神社は田部町ではなく、田町にあったことになるが、私にそれがどちらなのかなんて言う判断ができる由もない。

田部町説をとなえている大和志は上記の如くの「祝田神社 田部村に在り、今、天神と称す。」以上の記述はないが、石上布留神宮妙抄はちょいと丁寧だ。

祝田神殿一座田村に在り、神宮の坤凡そ二十余町田村旧宮の後に坐す今木神は日本武尊也。天平宝宇年中(757~65)従五位下吉田連智首或いは知須と云ふが祭る所ならん。名を祝田社と云ふ。延暦元年(782)11月19日今木神に従四位上の冠位を授け奉る。遂に平安京へ遷都の時、今の山城国葛野郡平野の地に神格をなさしむ。第一神殿に祭れる今木神は日本武尊是也。(カッコ内は筆者注)

こんな丁寧な資料を見ると、この度私たちが訪れた田部町のこの社を祝田神社と考えるのはちょいと難しいと思えてくるが、なあに・・・今回私たちがここに訪れたのは「田部」の地を目指してであり、祝田神社を目指してではなかった。とするならば、写真の神社が祝田神社であるなしにかかわらず、目的は十分に達していることになる。

さて次に向かうのは石上市(いそのかみいち)神社。祝田神社からは10分もかからない。

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石上の集落の中央に位置するこのお社の祭神少名彦名命(すくなひこなのみこと)、あの大国主神の国造りのパートナーである。平尾天満宮とも称しているが、それはこのお社がもとはその東方にある平尾山にあったと伝えられていることに由来する。延喜式には神名帳山辺郡の「石上市神社」とあるが、元要記(平安時代とも鎌倉時代とも)には「石上市本神社」とある。日本書紀顕宗天皇即位前紀に

石の上 布留の神椙 本伐り 末截(おしはら)い 市辺(いちべ)の宮に 天下(あめのした)治めたまひし 天 万 国 押 磐 尊(あめよろずくによろずおしはのみこと)の 御裔(みあなすゑ)(やつこ)らま 是なり

とある。その歌中に「市辺」とあることから、古代においてこの地に市があったと推定される。また、続日本紀延暦8年10月17日にある「石上衢(いそのかみのちまた)」が市の中心であったと推定される。衢は竜田道と上ツ道が交差する天理市櫟本(いちのもと)付近が推定されている。近代に入っての大和の地志、大和志料(大正年間)には石上市本神社が正しい社名として、櫟本町治道(はるみち)宮(和爾下(わにした)神社)を比定している。これまた私にはいずれが正しいのかはわからぬが、一つ興味深いことが・・・

それは石上市本神社と言う社名である。この社のある石上集落は櫟本町に接している(或いは内包されている)が、その櫟本の地名の由来について私は大きな櫟でも生えていたのだろうか何度と考えていたのだが、この付近に市があって、そこに石上「市本」神社があったとするならば、ちょいと事情は変わってくる。

・・・そう・・・市の本・・・と言う理解である。それが、その原義が忘れられ、音だけが残りそこに櫟本の文字があてがわれた・・・

そんな考えが、先生方のご説明を伺いながら脳裏に浮かんだ。