大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道一日旅行・・・3

祝田神社、石上市神社と尋ねた後は櫟本町市場垣内に在原神社とともにあった在原寺跡である。

ipp

現在の在原神社境内にあったとされるこの寺は、その境内への入り口の上の石標にその名残を示すのみである。「大和名所図会」にも業平神社(在原神社か?)とともに描かれた絵図にその往時の姿が髣髴されるが、今は見る影もない。

寺は明治初年に廃され、阿保親王在原業平を祀る在原神社として現在に至る。この寺の縁起(和州在原寺縁起)によれば、石上の平尾山にある本光明寺光明皇后の開基)の観音を信心して業平が生まれたので、阿保親王が承和2年(835)に寺を櫟本に移し、名を在原寺に改めたのがその始まりとされている。玉葉集にも、従三位為子の作として、

初瀬にまうでけるついでに在原寺をみてよみ侍りける かたばかり 其なごりとて ありはらの 昔の跡を 見るもなつかし

とあり、鎌倉期にはこの寺が成立していたことが分かる。

また芭蕉猿雖(えんすい)芭蕉の門人 窪田猿雖、通称は惣七)宛の芭蕉の書簡に「石の上在原寺、井筒の井の深草生たるなど尋て、布留の社に詣、神杉など拝みて・・・」とあり、芭蕉もこの地を訪れていたことが知られる。この書簡には貞亨5年4月25日との日付があり、この日付から推察するに笈の小文の執筆の元になった旅の折のことであろうと思われる。

ipp うぐいすを魂にねむるか橋柳  はせを(芭蕉

この寺跡とのかかわりは少々はかりかねるところがあるが、芭蕉の句碑がその境内の片隅にひっそりと立っていた。

さて・・・今はすっかりとさびれた古社の境内には・・・他にも興味深いものがいくつか残されている。

ipp

在原業平が祀られているこのお社に井戸・・・とあれば、多くの方は次の一文を思い出されるかもしれない。

むかし、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにいでてあそびけるを、おとなになりければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども聞かでなむありける。さて、この隣の男のもとよりかくなむ。 筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに 女、返し、 くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき などいひいひて、つひに本意のごとくあひにけり。

伊勢物語

そう・・・誰しもが高校の時に古文で習った、伊勢物語「筒井筒の段」である。この井戸こそは文中にある、筒井筒なのである。

もちろんそれは伝承に過ぎないが、上の一文を原作として作られた能を代表する曲の一つ「井筒」には

これハ諸國一見の僧にて候。我この程ハ南都七堂に參りて候。又これより初瀬に參らばやと存じ候。これなる寺を人に尋ねて候へば。在原寺とかや申し候程に。立ち寄り一見せばやと思ひ候

とあり、「井筒」の作者はこの物語の舞台をこの寺(在原神社)と考えていたとも推定され、となれば、この井戸がその井戸であるとの伝承も頷くことが出来よう。ここは想像力をたくましくせねばならぬ。世阿弥作と考えられるこの作品は、世阿弥自身が申楽談儀でこの曲を「上花也」(最上級の作品)と賛するほどの作であった。

本作は帰らぬ夫を待ち続ける女の霊を描いたもので、寂しさと喪失感に耐えながらなおも夫を待ち続ける美しい愛情が主題である。伊勢物語の各段の主人公は在原業平と同一視される事が多いが、本作でもこれを踏襲し、主人公夫婦を業平とその妻(紀有常女)と同一視している。

さて、一につ旅行の当日、この伊勢物語の一節については当然のことながらレクチャーがあった。一同は「ふむふむ、なるほどと聞き入る。そして・・・大方の解説が終わった後、それまで熱心に解説してくださっていた先生が一言つぶやく

・・・本当にどうしようもない男やな・・・こいつは・・・