大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道一日旅行・・・4

在原寺跡を後にした私たちは、この古刹の北面に接して東西に延びる名阪国道の高架を抜け、上街道を北上する。上街道は古代の官道である上つ道のこと。奈良盆地を南北に走る直線路で飛鳥時代にはすでに文献に登場する道である。平安時代以降は官道として機能しなくはなったが、長谷参りや、伊勢街道の一部としては長く機能し続け、今に至っている。

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その上街道を歩き始めて5分もしないうちに、何やら古風な、いわくありげな建物が目に入る。

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大阪府奈良警察署櫟本分署跡である。ここでひょっとして怪訝に感じられるかともおられるかもしれない。「ここは奈良県天理市・・・なのになぜ、大阪府の警察の分署があるのか・・・」と・・・

実は、奈良は初めから今に至るまで、継続的に「奈良県」であったというわけではない。

江戸幕府が瓦解し明治政府が樹立した慶応4年(1868)、それまでの大和の国は大和鎮撫総督府を経て、同年5月19日に奈良府、7月29日に奈良県となった。が、それは現在のかつての大和の国の全ての地域を意味するのではなく、旧大和の国の域内にはいくつもの県が生まれた。そしてその3年後、明治4年(1871))に第1次府県統合により旧大和の国内に生じたそれらの諸県が一つに統合され、改めて奈良県が設置されたのだが、明治9年(1876)に堺県に編入されてしまった。さらに堺県は明治14年(1881)に大阪府に編入されるにいたった。

この大規模な統合により、大阪の一部(しかも大阪から見れば辺境の)に過ぎなくなった旧大和の国は、行政上のあらゆる面で大阪府中央の視野から阻害され、旧大和国民の不満は高まった。そこで大和選出の府議員をはじめとした「奈良県再設置運動」が繰り広げられ、数々の苦難の末に明治20年(1887)11月4日、大阪府より再分割され、第2次奈良県が再設置された。

何年か前、大阪の府知事をしていた頃の、現大阪市長関西広域連合なる行政機構の発足を呼び掛けた。関西の所見のみならず、いくつかの近隣の県もこれに応じ、域内の人口が2000万人を越える行政機構がここに生れたわけであるが、その関西の域内にある奈良県だけがこれに参加していない。

とある県会議員の話として漏れ聞いただけではあるが、知事の思いとして、これに参加した場合、南部に広大な過疎化の進む山岳地帯が広がる奈良県にあっては、経済効率の追求を求めるこの連合に参加した時にそれらの山岳地域が切り捨てられてしまうことを懸念しているのだという・・・うべなるかな、である。

以下は私の根拠のない邪推ではあるが、知事の思いの片隅には、上の明治時代の奈良県消失という苦難の時代の記憶があるのではないかと思っている。大きな組織に属すれば、それなりの利点があることは否定しない。が、そのために切り捨てられるものが生じることは確かである。奈良の場合、切り捨てられるものが大きすぎる・・・というのが、奈良が関西広域連合に参加しない理由なのである。

無論、その他にも様々な政治上の駆け引きがあるのかもしれない。しかし、私にはうかがい知れぬこと・・・関西広域連合にとって、奈良の不参加は痛手であるという。当然、奈良もそのことにより不利益を被っている。が、たとえそれが表向きであったとしても、先に述べたのがこの不参加の理由であるとするならば、私は現奈良県知事の判断を支持する。

ちょいと話が政治的になってしまった。話を大阪府奈良警察署櫟本分署跡に戻そう。この古風な建物は、単に奈良県消失の時代の苦難の証人としてそこに保存されているのではない。実は、この町天理市にとっても・・・と言うよりは、その名の由来になった天理教にとっては忘れてはならない受難の証人なのであった。

江戸の末期に成立した天理教は、維新後の天皇制国家にあっては国家神道とは別の神の体系をとなえる邪教の1つとして明治政府(さらには信者以外の多くのこの国の人々)から異端視されていた。明治20年(1987)、教義についてはもっとも純粋であった(当たり前といえば当たり前のことであるが)教祖中山みきの「出直し(天理教では死をこう呼ぶ)」以降、教団は明治政府に対する態度を軟化させ、政府に公認されるまでの天理教の歴史は弾圧の歴史でもあった(以降、太平洋戦争の敗戦に至るまで、内務省の厳しい監督は続く)。

その弾圧の象徴が、この大阪府奈良警察署櫟本分署なのである。

国家の国民監督の出先の機関として警察は存在する(もちろん治安維持の機能をも含めてであるが)。ならば、その国家が異端視し警戒する宗教集団に対しての弾圧の先鋒は必然的に警察組織と言うことになる。そして、旧丹波市(現天理市の一部)に本拠を置く天理教に対する弾圧の基地は必然的に隣接する村にあったこの櫟本分署ということになる。

事実、当時多くの天理教信者がこの分署に拘禁され、厳しい尋問を受けた。教祖中山みきも当然のことながら例外ではなく、明治8年(1875)から19年(1886)に至るまで、すなわち中山みき78歳から89歳に至るまでの約10年間に、彼女は幾度となくこの分署に拘禁され、厳しい尋問を受けたという。それらの全てについて、ここで詳述することはかなわぬが、以下にそれらの拘禁の際にあった一つのエピソードを紹介しておく

分署にお居での間も、刻限々々にはお言葉(神のお告げ)があった。すると、巡査は、のぼせて居るのである。井戸端へ連れて行って、水を掛けよ。と、言うた。しかし、ひさ(教祖の付添人)は全力を尽くしてこれを阻止し、決して一回も水をかけさせなかった。 或る日のこと、 「一ふし/\芽が出る、・・・(苦難の時にこそ発展の芽が出てくる)」 と、お言葉が始まりかけた。すると、巡査が、これ、娘。と、怒鳴ったので、ひさが、おばあさん、/\。と、止めようとした途端、教祖は、響き渡るような凛とした声で、 「この所に、おばあさんは居らん。我は天の将軍(天理教において教祖は神の憑代であるとともに神そのものでもあった)なり。」 と、仰せられた、その語調は、全く平生のお優しさからは思いも及ばぬ、荘重な威厳に充ち/\て居たので、ひさは、畏敬の念に身の慄えるのを覚えた。肉親の愛情を越えて、自らが月日のやしろ(神の憑代)に坐す理を諭されたのである。

稿本天理教教祖伝(明治19年2月)

※文中の( )内の注釈は私(三友亭)のいい加減な注。

一説によれば、中山みきは日ごろから周囲に「ばあさん」と呼ばれることは嫌がっていたらしく、ここもその一端が現れたのだとも考えられるが、官憲の弾圧下にあってかくも毅然とした彼女の居住まいは括目に値する。

それにしても興味深いのは、この教祖に対する圧力が明治8年に始まり、明治19年に終わるという事実である。その最後の拘束については、翌年の明治20年2月に「出直し」ていることに由来するのかもしれないが、明治9年に奈良県が消滅し、明治20年に至って復活する・・・すなわち、教祖に対する弾圧が奈良が奈良でなくなっていた年間に行われていたということは、少々興味深くもある(まあ、単なる偶然であろうとは思うけれど・・・)。