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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道一日旅行・・・5

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明治初年の堺県編入や大坂編入時における我が奈良県民の苦難、そうして「法がこわいか、神がこわいか」と言い放ち、明治政府に抗い続けた(と言うよりはその存在を意に介していなかった)天理教の教祖の苦難にしばし思いをはせた後、再び上街道を北上する。 ほんの200mあまりであろうか・・・ささやかな流れに突き当たる。

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高瀬川である。そして、その流れと並行して走る道こそ、古代奈良盆地北部の東西を結んだ北の横大路である。 今でこそ写真のようなきわめてささやかな流れあるが、古代の大和においてはその北部の重要な水路であったらしい。それが同じく東西に走る北の横大路と、かくも密着して流れ、さらには南北の重要な交通路である上つ道(上街道)と交差するからには・・・ そこにはかつて多くの人が集い、市が形成されていた・・・櫟本(いちのもと)(市の本)なる地名が今あるのも、それが磐余であろうと思う。 我々はここで右折。東へと向かう。その突き当たりに見えてくるのは

和邇わにした神社である。

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鳥居の手前にまず目に付くのは、この青銅(?)製の見事な狛犬さん。うっかりして、いつのものかを確かめずに済ませてしまったが、何ともまあ立派である。立派すぎて、右の狛犬さんなどは天から光が降り注いでいる・・・ そして、鳥居を抜ける。奥へ奥へと長い参道が延びる。道幅は、自動車が対抗できぬほど・・・ぐらいであろうか。その参道に入ってすぐ北側に下の様な石碑が立っている。 ipp

書いてある文字を判読すれば

刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 桧橋従来許武 狐尓安牟佐武 右一首傳云 一時衆會宴飲也 於是夜漏三更所聞狐聲 尓乃衆諸誘奥麿日 関此饌具雜器狐聲河橋等物但作哥者 即應聲作此歌也

とある。万葉集巻十六・3824歌、並びにその左注である。訓読するると次のようになる。

さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津(いちひつ)の桧橋より来む(きつ)()むさむ 右の一首傳へて云はく 一時(あるとき)衆會(もろもろあつま)りて宴飲す ここに夜漏三更にして狐の聲聞こゆ すなはち衆諸(もろひと)奥麿(おきまろ)(すす)めて曰く この饌具、雜器、狐聲、河橋等の物に()けてただ(うた)を作れ といへば、即ち聲に應へて歌を作る といふ。

作者は長忌寸意吉麿ながのいみきおきまろ(左注には「奥麿」)。以下に拙い註釈を加える。

さし鍋・・・弦のついた、注ぎ口のある鍋。

子ども・・・ともに宴を楽しんでいる周囲のものたちへの呼びかけ。

櫟津・・・・詳細は下に述べる。

桧橋・・・・桧でできた橋。

以上を踏まえて口語訳すれば

さし鍋の中に湯を沸かせよ、ご一同。櫟津の桧橋から、「来む来む(コンコン)」と鳴きながらやって来る狐めに浴びせかけてやるのだ。

となろうか。 少々おふざけをしながら、詠んでいるのは分かるが、このままでは何が面白いのかわからない。ここは左注の助けを借りる必要がありそうだ。

ある日のこと・・・大勢が集まって酒宴を開いていた。時は深夜(夜漏三更)におよび、一同の酔いもまわって、座もかなり乱れてきた。そんな時である・・・いずこからか狐の鳴き声が聞こえてきた。歌上手として周囲から知られていた長忌寸意吉麿を周囲はそそのかす。「今目の前にある饌具・雜器・狐聲・河橋などの品々を詠みこんで一首を為せ。」と。狐の鳴き声だけならともかく、これだけのものすべてとなるとちょいと難題だ。けれども意吉麿は苦も無く一首を読み上げた。

それがこの一首である。与えられた課題、「饌具」は「さし鍋」、「雜器」は「(ひつ)(櫟津イチヒツ)」、「狐聲=来む(コン)」、「河橋=桧橋」とすべてクリアされている。 一首の目的は与えられた課題をこなすこと、しかも周囲はだいぶ酔っている。真面目くさった歌よりも、ナンセンス(最近、この言葉・・・あんまり聞かないなあ)な方が受けはいいであろう。

これは今だってそうだ。もしみなさんがとある宴会に参加したとする。1次会も終わり、2次会3次会とみんなは大盛り上がりだ。カラオケもみんなノリノリで、酔いは最高潮である。そんな時にラブバラードなんかを朗々と歌い上げるやつがいたら・・・と考えれば、この一首は、場の空気を充分に読んだ意吉麿の絶妙の一首であったのだと言えよう。

・・・と、ここいら辺りまでの読みならば、まあだいたいのところは私も理解できていたが・・・ここからの話は当日の解説を聞いて初めて知り得たことである。

それは・・・なぜこの歌碑がここにあるか・・・ということである。結論を簡単に言えば「この歌碑がある場所が櫟津だから。」と言うことになる。

たとえごろ合わせのためとはいえ、この「櫟津」が架空の地名であっては面白みが半減する。ここは是非とも実在の地名でなければならない。そこで続日本紀をひもとくと神亀元年(724)に「少領正八位下大伴櫟津連子人。」とある。古代、一族の名はその居住地に由来することが多いことから、この「大伴櫟津連子人」の「櫟津」と推定することが出来る。(ここらあたりまでは家に帰ってから手元の注釈書で確かめることが出来た。と言うことは、このことを私が知らなかったというのは私の不勉強以外のなにものでもない。それを気づかせてくれただけでも今回の徒歩旅行には十分な収穫があったと思えるのだが・・・さらに以下に示すように新たなる知見を売ることが出来た。が・・・、この徒歩旅行からもう一月近くたつ。記憶も定かではなく、幾分かの私の想像が混じってしまうことは避けられないと思うが了とせられよ)

「櫟津」の「櫟」は櫟本の「櫟」、「津」は「船着き場」。高瀬川を遡ってきた船が上つ道と交差するあたりに停泊する場所があったとしても何の不思議はない。しかも櫟本の「櫟」は「市」である。そして・・・そこには多くの人々が行き来する場所であったがゆえに、立派な橋が架けられている。それが「桧橋」である。 と考えると、そんな立派な橋から人間ならぬ狐のヤツめが堂々とやってくるのでけしからん、お湯をぶっかけて懲らしめてやろう・・・となって、一首の意はますますわかりやすくなる。 なお、この辺りに橋があったであろうことは日本書紀武烈天皇即位前紀に

石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ ものきわに 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣きそぼち行くも 影媛あわれ

と詠まれる中の「高橋」と言う語がその証左になる。この高橋は歌中の順番に従えば、布留と大宅の間に位置することになるが、現在地図で見るに、布留と大宅の間にはこの櫟本が入る。くわえて、この高橋と言う語であるが、この和邇下神社の南に接して流れる高瀬川の別名が高橋川であるとの考えも示されている。水際から、地面までの高低差が大きければ、それが高瀬・・・そして水際から地面までの高低差が大きければ、当然そこにかけられる橋も高い位置にかかることになる。それが高橋・・・とすれば、高橋が架けられている川であるから高橋川と言う推察も可能であろう。そして、その端が布留や春日、佐保と同格の、誰もが知りうる地名として認識されていたことは記憶にとどめておいていてよいであろう。だからこそ・・・みんなが知っている櫟津という地名だからこそ作者はここでその地名を迷いなく使い得たのであった・・・