読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道一日旅行・・・6

和爾下神社の鳥居横で、万葉の歌の匠の酒宴における戯笑の歌についてひとしきりレクチャーを受けた後、我々は鬱蒼とした木立に囲まれた参道を東へ東へと進む。なんとなく見覚えのあるお方が、いかにもゆるりとした様子でお座りになっていた。

ipp

歌聖・・・柿本人麻呂である。

人麻呂については敢えてここでくだくだしい説明を付け加える必要もない。万葉集の編者と目される大伴家持に「山柿の門」と仰がれ、平安朝以降には三六歌仙の一人にも数えられ・・・さらには人麻呂影供などの儀式により後の世の歌人に神格化された、万葉集、いや和歌史上最高のビッグネームとされる歌人である。

その柿本人麻呂が、なぜこんな場所に座っているのか・・・

その訳は下の写真が語ってくれている。

ipp

歌塚」と石碑には記されている。

歌人顕昭による柿本人麻呂の伝記・家集の考証書柿本朝臣人麿勘文に「清輔(藤原)語りて云はく」として次のように記してある。

下向大和國之時 彼國古老民云 添上郡石上寺傍有社 稱春道社 其社中有寺 稱柿本寺 是人丸之堂也 其前田中有小塚 稱人丸墓 其塚靈所常鳴云々 清輔聞之 祝以行向之處春道社者有鳥居 柿本寺者只有礎計 人丸墓者四尺計之小塚也 無木而薄生 仍為後代建卒塔婆 其銘書柿本朝臣人丸墓。

大和の國に下向(くだり)し時、彼の國の古老の民の云はく「添上郡石上寺の傍らに社有り。春道社と()ふ。其の社の中寺有り。是れ人丸の堂なり。其の前の田中に小塚有り。人丸の墓と稱ふ。其の塚靈所にして常に成る云々。」と。清輔、之を聞きて祝ひて以て行向せし處、春道社は鳥居有り。柿本寺は只礎有る計りなり。人丸の墓は四尺計りの小塚なり。木無く薄生ゆ。仍りて後代の為に卒塔婆を建つ。其の銘に柿本朝臣人丸墓と書く。

恥を恐れずに訓読文も一緒に示してみた。その正確さに自信は全くないが、大体のところは分かっていただけるかと思う。顕昭はその柿本朝臣人麿勘文において、その作品・作者(柿本人麻呂)に対して、その時代が能う限りの考証を加えている。そしてその末尾の部分に「墓所事」なる一項目を設けている。引用した清輔の一文はそこから抜粋したものである。顕昭は清輔の猶子(養子と似ているがちょいと違う)であるから、その話を何かのきっかけで聞いたのであろう。清輔自身もその歌集「藤原清輔家集」に

大和国石上柿本寺という所の前に人磨呂の塚ありと聞きて卒都婆に柿本人丸の塚としるしつけて傍にこの歌をなん書けり 世を経てもあふべかりける契こそ苔の下にもくちせざりけれ

なんて一節を残している。

顕昭自身は、これを受けてこの「墓所事」を「考萬葉人丸於石見國死去了(萬葉を考ふるに人丸は石見の國にて死にぬ)」と書き起こしている。これは万葉集

柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首 鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ(巻二・223)

とあるのを踏まえてのことだが、その上で義理の父の清輔の考えを踏襲し、「私按人丸於石州雖死亡 移其屍於和州歟(私按ずるに人丸は石州にて死亡にぬとへど、其のかばね和州に移すか。)」と結論づけている。

そう・・・こここそが、かの稀代の歌人・・・歌聖、柿本人麻呂墓所なのである。そして、そこに彼が祀られている故に、その塚は「歌塚」と呼ばれた。現在の碑は享保17年(1732)のもの。文字は後西天皇(1655~1663年在位)の皇女、宝鏡尼の筆によるものだという。上の石像は、見ての通り最近のもの。私がこの場所を訪れたのは今から30年ほど前・・・その時はこんな石像はなかった。

無論、ここが学問的な意味において柿本人麻呂墓所であるかどうかは別の問題だ。ただ、ここがその墓所であるという伝承が古くからあり、多くの歌人たちがそう信じ、崇拝してきた事実は疑うまでもない。そのような意味においてまさしくこの小塚は「歌塚」なのである。

さて、ここからは・・・今回の一日旅行とは直接関係はないが、柿本人麻呂墓所がどうのこうのと言ったお話を聴いていたら、私の思いはいつのまにか柿本人麻呂の死に場所いずこ・・・鴨山はいずこ・・・なんてことを考えていた。そして、私が大学に入り、万葉集を学び始めた頃を思い出した。

ちょうどその年、梅原猛氏が歌の復籍を発表し、水底の歌以来の氏の自説を発展させた人麻呂刑死説が世の注目を集めていた。柿本人麿の晩年の作に水底や死に関するイメージの多いことに注目し、様々な状況証拠から、島根県益田市沖にあって、万寿3年(1926)の万寿地震によって海中に没した鴨島という海上の小島に流罪となり、世を去ったというものだ。

と同時に、その梅原氏がやり玉に挙げた斎藤茂吉斉藤茂吉の鴨山考(柿本人麿・総論編 p341~p386)が思い出されたことは言うまでもない。茂吉はありとあらゆる史書・伝承・考証・地誌の類を博捜し、まずは鴨山を「鴨山の磐根し纏けるであるから、ただの丘陵或は小山ではあるまい。」と規定する。そして自らも現地に足を運びその位置を確かめようとする。「粕淵を過ぎて浜原に入らうとするところから江ノ川を眼界に入れつつ、川上の浜原、滝原、信喜、沢谷の方に畳まつてゐる山を見」た茂吉は、上の人麻呂歌を受けて歌われた、

柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌二首 今日今日と我が待つ君は石川の峽に 一云 谷に 交りてありといはずやも(巻二・224) 直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ(巻二・225)

に詠まれた「石川」を想起する。

なるほどこれは、『石川の峡』に相違ないといふ気持が殆ど電光のごとくに起つたのであつた。

まさに茂吉らしい直観であった。そしてその直感が、いつのまにか「石見国にあつて、『石川に雲たちわたれ見つつしぬばむ』の語気に異議なく腑に落ちてくる山河の風光はこのあたりを措いてほかにあるか否か。」との確信に変わるのは、茂吉の人麻呂に対する強い執着からすれば必然のことであった。

そして彼は

人麻呂終焉の地「鴨山」を島根県邑智郡粕淵村(現美郷町の湯抱温泉付近)津目山(さっきグーグルマップを見たら「鴨山」となっていた)と定める。その享年(慶雲4年)も死因(腸チフス)までも・・・

茂吉は、この結論に到る論証を始める前に言った。

私は直ぐこの津目山を以て人麿の歌の鴨山だらうといふ見当をつけた、そして、その日の夕方も来て見、次の日も来て見、また次の日も来て見たが、鴨山はこの山でなければならぬといふ程までになつた。東京にゐて見馴れない地図の上で想像してゐたのと違ひ、計らずも目のあたりこの山を見たとき、私の身に神明の加護があるのではあるまいかとさへ思へた程である。世の人は私のかういふ主観的な言ひ方に忍耐せられたい。

何ともまあ傲慢と言えば傲慢。そう言われても仕方のないもの言いではあるが、茂吉という強烈な個性を考えるとそれが逆に私を惹きつけて止まない魅力に感じられる。

ともあれ・・・その類まれなる創造力と激烈なる執着を持って茂吉は、自らの信奉する柿本人麻呂終焉の地を定めた。そして歌う。

人麿がつひのいのちををはりたる鴨山をしも此処と定めむ

「定めむ」なんてもの言いは、いかにも茂吉らしいではないか・・・