大和逍遥   

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山辺の道一日旅行・・・7

1300余年前に世を去った歌聖柿本人麻呂が眠るという歌塚を後にした私たちの目に入って来たものはこれまた何やら意味ありげな文字の刻まれた石碑である。

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石上(いすのかみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら)高橋過ぎ 物多(ものさは)大宅(おほやけ)過ぎ 春日(はるひ)春日(かすが)を過ぎ 嬬籠(つまこも)小佐保(をさほ)を過ぎ 玉笥(たまけ)には(いひ)さへ盛り 玉椀(たまもひ)に水さへ盛り 泣き(そぼ)ち行くも 影媛(かげひめ)あはれ

と刻まれている。日本書紀(武烈天皇即位前紀十一年) におさめられた悲歌である。布留→高橋→大宅→春日→佐保と地名を南から北へと順番に並べて歌われるこの歌は「玉笥飯さへ盛り 玉椀に水さへ盛り」とあることからもうかがえる様に、葬送の行列である。そしてその葬送の列の主は「泣き沽ち行」く「影媛」である。それが一体誰の葬送なのか、そして影媛とは誰なのか・・・それは上のリンク先で確認していただいた方が私の下手な解説を読むよりはるかに合理的であるが、少々骨が折れる作業なので、あえてご説明すれば

 武烈天皇が皇太子だった時ころ、大臣平群真鳥へぐりのまとりが強大な勢力を誇っていた。真鳥は国政をほしいままにし、数々の無礼をはたらいていた。そんなある日、皇太子は物部麁鹿火(もののべのあらかび)の息女影媛を娶ろうとした。仲立ちを建てて皇太子は影媛にあたりをつけようとした。が、影媛はすでに真鳥の息子(しび)と関係を為していた。影媛が「海石榴市(つばきち)(現桜井市金屋付近)の巷でお待ちします」と返事をしたので、皇太子は海石榴市におもむく。市ではちょうど歌垣が行われており、皇太子は影媛の袖をとらえ、誘いかけるが、そこに鮪がやって来る。そして二人の間に割って入って来たので、皇太子は影媛の袖を離し、鮪と歌を応酬を行う。皇太子は鮪の歌により、鮪がすでに影媛と関係を持っていたことを知り、顔を赤くして怒る。その夜、皇太子は大伴金村の家に行き、兵を集める相談をした。金村はその相談を受け、数千の兵を率い平群を急襲し、鮪を捕えて奈良山で処刑した。影媛は奈良山まで出向き、鮪の最後を見届ける。驚き混乱した影姫の目には涙があふれた。

そこでこの歌をよみ、鮪の屍を土に埋めたのだという。

さて、そんな古代の悲劇を伝える石碑のちょいと北側にはこんな板切れがぶら下がっている。

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前回ちょいと触れた柿本寺のあった場所を示す看板である。この寺がいつから存在したかは私には知り得ないが、聞くところによれば柿本氏の氏寺であったという。その時期は定かではないが、ここから西約400メートルの天理市立櫟本小学校の西側へ移ったらしく、室町時代から江戸時代にかけては代々学僧が出て和歌や茶の湯などに親しんだが、明治初年に廃寺となったらしい。往時のこの寺の様子を示す柿本宮曼茶羅(現在奈良市学園前町大和文華館が所蔵)が現存しており、なかなかの勢を誇っていたことは、それにより知ることが出来る。

柿本寺跡のすぐ東の小高い丘の上にあるのが、和邇下神社だ。

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落ち葉の積もった長い石段を登った先にはかくも優雅な拝殿があり、その奥に重要文化財に指定されている当社の本殿がある。

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延喜式神名帳に「和爾下神 社二座」とあるが、大和志には

和爾下神社二座、一座ハ櫟本村ニ在リ曰ク上治道天王ト号シ、近隣五村共ニ祭祀ニ預ル。一座ハ横田村ニ在リ曰ク 下治道天王ト号シ、近隣十一村共ニ祭祀ニ預ル。

とあり、この社が「上治道(はるみち)天王」とも呼ばれていたことが分かる。もう一座はここから西に位置する横田村(現郡山市横田)に現存するが、これもまたなかなかの御社。いつか機会があればご紹介したいとは思うが、ここでは先を急ぐ。

祭神素盞嗚尊(すさのおのみこと) と 大己貴命(おおなむちのみこと)大国主神の又の名) と稲田姫命(くしなだひめ)の三柱。素盞嗚尊が本地垂迹説により牛頭(ごず)天王であることから「上治道天王」と呼ばれた。

治道の名のいわれは神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄に灌漑すべく高橋山から流れる水を引くために高橋川の水路を櫟本の東部から南へ流れていたのを北へ移動し西流するよう河川の造り替えをし道路をも改修したのだが、そのことによりこの森が治道の杜と言うようになり、そこにあるお社を治道宮と呼ぶようになったからである(というふうに「東大寺要録」には書いてあると、あちら、こちら・・・あちらこちらサイトに書いてあるので、実際に東大寺要録に当たっては見たが、なにぶん浅学な私ゆえ、)。治道とは新たに切り開かれた道のこと、「()る」は 「のばし広げる。」の意。

ところで、先にこの柿本寺が柿本氏の氏寺であるといった。だからこそそこに隣接する小塚が柿本人麻呂の墓であるとも認識されてきたのであろうが、ならば柿本氏とこの櫟本とのかかわりは如何に・・・

ここでちょいと手元にある万葉集の注釈書をひもといてみる。

古事記』の始祖伝承に第五代孝昭天皇の子天押帶日子命あめおしたらしひこのみことの子孫として和珥(わに)氏一族をあげている中に、柿本臣の名がある。和珥氏一族は今の奈良県天理市和爾に盤踞した雄族で代々皇妃を多く大和朝廷に臣従した。

伊藤博 万葉集釋注一

とある。『古事記』の始祖伝承とは次の一文。

御眞津日子訶惠志泥命(みまつひこかゑしねのみこと)孝昭天皇)、葛城掖上(かづらきのわきがみの)宮に(いま)して、天の下を治めき。此の天皇尾張(おはりのむらじ)(おや)奧津余曾(おきつよそ)が妹、名は余曾多本毘賣命(よそたほびめのみこと)(めと)りて、生みし御子、天押帶日子命()、次に大倭帶日子國押人命(おほやまとたらしひこくにおしひとのみこと)二柱()れ、(おと)帶日子國忍人命は、天の下を治めき(孝安天皇)。()天押帶日子命は、春日臣(かすがのおみ)大宅臣(おほやけのおみ)粟田臣(あはたのおみ)小野臣(おののおみ)柿本臣(かきのもとのおみ)・・・・近淡海國造(ちかつあふみのくにのみやつこ)が祖ぞ。

古事記孝昭天皇の条である。今私たちのいる和爾下神社の住所は天理市櫟本町櫟本字宮山2490。上にあった天理市和爾の地とはほど近い。おそらくはかつて和爾の域内にある地であったと考えられる。上に示したように柿本氏が和珥氏の支族であったとすれば、その本貫が和爾の地、あるいはそこに隣接した地域・・・櫟本にあると考えるのが常識的な理解であろう。であるとしたならば、その一族の氏寺がこの地にあることには何の不自然もない。

伝承上は・・・あくまでも伝承上は、歌聖柿本人麻呂は自らの本貫の地にて今もなお・・・長い眠りについているのである。