大和逍遥   

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山辺の道一日旅行・・・8

和爾下(わにした)神社をあとにして東に向かう私たちは程なく小高い丘陵地帯に突き当たる。東大寺山丘陵地である。このあたりがかつて東大寺が領有する地域であったことがその名の由来であるが、ここに東大寺古墳群がある。

東大寺古墳群は4世紀後半か7世紀にかけての古墳群で、前期の赤土山古墳東大寺古墳、中期の和爾下神社古墳(和爾下神社はこの古墳の上に位置する)・墓山古墳、後期の棚池一号墳などの前方後円墳の他、後期の円墳約30基からなる。谷を挟んだ南側の石上豊田古墳群と対峙するように位置し、あわせて200基前後の巨大な古墳群を形成している。

そんな数ある古墳の中でもとりわけ名高い古墳は下の写真の東大寺古墳である。

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ご覧の通り、私のカメラにはおさまりきれないほどの巨大さを誇るこの古墳は4世紀後半頃に築造された前方後円墳である。全長が推定140mのこの巨大前方後円墳は、周囲に2列の円筒埴輪を巡らし、墳頂部には家・盾などの形象埴輪が据えられていた。 後円部の埋葬施設の主体には、北に向いた墳丘主軸に平行して木棺を覆った長さ推定9.4mの及ぶ大規模な粘土槨があったが、昭和36年学術調査時にはすでに主要部分は盗掘を受けていたという。

けれども・・・それでも調査時に発見された副葬品は実に豪華なもので、多数の鉄刀・鉄剣などの武器類のほか、玉類、腕輪形石製品、滑石製のつぼなどが出土している。その多くが東京国立博物館に収納されているが、その名を示すだけでも、この古墳の主の権力の程をうかがい知ることができよう。

重要文化財 金象嵌銘花形飾環頭大刀 古墳時代・4世紀(刀身:中国製・2世紀) 重要文化財 家形飾環頭大刀 古墳時代・4世紀 重要文化財 勾玉 古墳時代・4世紀 重要文化財 鍬形石 古墳時代・4世紀 重要文化財 石製台付坩 古墳時代・4世紀 重要文化財 銅鏃 古墳時代・4世紀 重要文化財 巴形銅器 古墳時代・4世紀 重要文化財 短甲・草摺 古墳時代・4世紀 重要文化財 素環頭大刀 古墳時代・4世紀 重要文化財 靫形埴輪残片 古墳時代・4世紀

東京国立博物館特別展「よみがえるヤマトの王墓―東大寺山古墳と謎の鉄刀―」より

とりわけ金象嵌銘花形飾環頭大刀は有名で、そこに施された金象嵌の銘文は考古学史上、実に価値の高いものであることは多くの人の知るとおりである。その銘文に言う、

中平□□(年)五月丙午 造作文刀 百練清剛 上応星宿 下避不(祥)

「中平□□年五月丙午 文刀を造作(つく)る 百錬にして清剛 上は星宿の応へ 下は不祥を避く(中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる)」とでも読むのだろうか。

中平とは後漢霊帝の年号で、184~189年を指し、『魏志倭人伝に記された「倭国乱」が終結した時期と一致する。この中平銘紀年刀は「倭国乱」終結の頃、後漢王朝から下賜されたものであると考えられているが、この鉄刀がいつどこで入手され、この東大寺古墳に埋葬されるにいたったかは分からない。しかしながら、この和爾の地の人たちがの後漢と交流があったことをここから想像することは、それほど無茶なことではないと言えるだろう。

さらに想像をたくましくすれば・・・この刀が「倭国乱」終結の頃、後漢王朝から下賜されたものとの上記の考えた時、後漢皇帝がこの倭の地の、いったい誰にこの「上は星宿の応へ 下は不祥を避く」ような銘刀を授けたのか・・・との疑問に対する答えが欲しくなって来よう。素直に考えるならば、それは「倭国乱」を終結させたご当人・・・すなわちこの「倭国乱」の終結に際して擁立された王と考えるのが自然である。そして「倭国乱」終結に際して、西日本に形成された連合国家の盟主とは・・・

言わずと知れた・・・邪馬台国の女王、卑弥呼である。

無論異説はある。まず何も働きかけられることなく後漢が、絶海の孤島の王にこのようなものを授けるはずがない。それは・・必ずや「倭国乱」が終結し新たなる王が誕生したことを伝える使いに対する返礼でなければならない。けれども、後漢書には、そのような記載が一切ない。時代のやや下った魏志には例の有名な倭人伝があり、女王卑弥呼からの遣使の記録は詳細になされている。となれば、仮にこの銘刀が卑弥呼からの遣使に対する返礼であるとするならば後漢書にそのことについての記録が残っているはずである。しかし、後漢書には「桓靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」と、その大乱の様子を記した記録はあっても、その後あったであろう遣使の記録は残されてはいない。この事実をとらえ、この金象嵌銘花形飾環頭大刀が卑弥呼に贈られたものとするには無理があるとの考えである。

この点については東大寺古墳の発掘に関わり、この刀を賜ったのはやはり卑弥呼であろうと考える金関恕氏はいくつかの原因を想定する。後漢においてはこの類の(遣使の有無)事実を記録に残す習慣がなかったか、史書(後漢書)の撰述の際にこの事実を示す記録が採用されなかったか、またまたあるいは、記録そのものが後漢末の争乱で失われたのではないかと。氏によれば『晋書』には後漢の安順(安帝と順帝)以後、すなわち107年以後の記録は多く失われたことを伝えているという。

加えて、後漢書東夷列伝の倭人に関する記述と、三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳にある倭人についての記述(いわゆる魏志倭人伝)とでは、その分量に大きな開きがある。その詳細さにおいては前者は後者には比較にならぬほどの簡略な記述しか残されていない。そんな事情の中、「史書(後漢書)の撰述の際にこの事実を示す記録が採用されなかった」ということは大いにありうることだとも言える。

さて、上にご紹介した金関恕氏は、実は私が学生の自分非常勤の講師として私の母校で週に一回の講座を開いておられた。もちろん私もその教えを受けるべく講義の列にあったのだが・・・その日その日の糊口をしのぐべくアルバイトに励んでいた私は、飛び飛びにしかその教えを拝することが出来なかった。今にして思えばなんともったいないことをしたかと悔やまれてならない。

私が氏の・・・いや、先生の講義を拝していた頃はすでに東大寺古墳の発掘は終わっていたから(まあ、この古墳の発掘調査があった年が私が1歳になった年だから当たり前といえば当たり前だが)当然、上に述べ来ったようなことははず。けれどもそれが一切私の記憶に残っていないのは・・・飛び飛びに参加した講義の、その飛んだ部分にてお話しくださったのか・・・それとも私の記憶力の乏しさに由来するのであろう・・・

ところで・・・昨年、私は関西に出て来ている母校(ここでの母校は高校のこと)の出身者の集まりにおいて、その会に参加しておられた纏向遺跡等の調査に関わっておられた考古学者石野博信氏と親しくお話しする機会があった。氏は上の金関氏とともに邪馬台国畿内にあったとする説の論者の筆頭にもあげられる人物ではあるが、近年の発掘の成果を踏まえ、纏向遺跡こそが邪馬台国の中心であるとの論調がマスコミをはじめとして多く語られるようになった中、邪馬台国の中枢の範囲をもう少し広く考えるべきではないかと考えていらっしゃる。その論拠となっているのが、件から述べ来っているこの金象嵌銘花形飾環頭大刀の存在である。

氏は金関氏と同じくこの銘刀が卑弥呼に贈られたものであると考えていらっしゃるが、ならばそれが東大寺古墳から出てきた以上は、この古墳邪馬台国に関わりのあるものとしなければならない・・・微々たる進度ではあるが、桜井市纏向周辺は着実に発掘調査が進んでいる。それに比して、纏向の北に接する天理市はまだまだ調査が進んでいるとは言えない。今後どのようなものが出て来るかわからないまま安易に纏向=邪馬台国との結論を出してはいけない・・・とおっしゃっておられた(これは氏の著述や講演などでよく話されている内容である)。

氏はその日、さらに突っ込んで東大寺古墳の主に関する考えなども話しておられたが、ここから先は酒宴でのこと・・・私に勝手に公表することはできない・・・