大和逍遥   

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山辺の道一日旅行・・・9

東大寺古墳をあとにした後は昼食予定地の櫟本高塚公園へ、5分ほど歩く。この公園は古代の豪族和爾氏にまつわるとされる櫟本高塚遺跡を保存し、周辺一帯を公園として活用するために整備されたものである。ここまで2時間以上歩き続けた疲れを癒やし、午後の行程への英気を養う・・・ちょいと大げさだな・・・。

英気を養うと言えば、その昼食時に見かけたのだが、参加者の中に簡易のクーラーボックスを肩に提げて歩き続けていらっしゃった方がおられて、この長い行程で、あんなに重そうなものを・・・大変だなと思って見ていたのだが、その方はこの公園に着くなりそのクーラーボックスから缶ビールのロングサイズを2,3本取り出し、周囲の方々に紙コップを手渡してはそこにあの泡の出る冷たい黄金色の飲料をついで回っておられた。何という気配り・・・と感心しながら「よし、私も来年は人様の分はともかく自分の分は・・・」と固く決心した。

それほどに日差しに強い暑い一日であった。

さて、昼食をとり、充分に午後のための英気を養った私たち(ビールにありつけた方々は特に)は、公園の北に接する天理市和爾町へと向かう。ご覧になっている写真は何の変哲のない道を歩く私たち一行の姿である。和爾町は虚空蔵山の西に延びる丘陵地の斜面に開けており、集落は北東に向かい次第に高度を上げる。したがって町中の道はそのすべてがなだらかな写真のように坂道となる。繰り返すが何の変哲もない道である。

けれども・・・時を千数百年遡ったとき、この坂道は一つの物語の舞台となるのである。

それは第10代崇神天皇の10年のことである。天皇は群れ為す諸臣にいう。「国家を導く大本は教化にある。けれども遠き国々の民にはまだ教化が進まずまつろわぬものが多い。お前たちの中からふさわしいものを選び四方に遣わし、私の法を知らしめよ。」と。そして同年九月、北陸には大彦命(おほびこのみこと)、東海には武淳川別命(たけぬなかはわけのみこと)、西海には吉備津彦命(きびつひこのみこと)丹波には丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)四道将軍)を派遣することに決定した。そして天皇はさらに彼等に(みことのり)して「もし教えに従わない者があれば兵を以て討て」といわれた。それぞれ印綬に授け、これを将軍とした。詔に従い大彦命は北陸への旅の緒に就いた。大彦命磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや) (現桜井市)を発ち、山辺の道を北上した。布留を過ぎて和珥(わに)(和爾)の坂に到ったときのことである。

童女有り、歌して曰はく、御間城入彦(みまきいりひこ)はや 己が命を 弑せむと 窃まく知らに 姫遊びすも  是に、大彦命異しびて童女に問ひ曰はく「汝が言ひつることは何の辭ぞ。」。對へて曰はく「言はず、唯だ歌ひつるのみ。」といふ。乃ち重ねて先の歌を詠ひ、忽ちに見えずなりぬ。

不思議な少女が一人歌っていた。 御間城入彦(みまきいりひこ)はや (おの)()を ()せむと (ぬす)まく知らに 姫遊びすも               御間城入彦(崇神天皇)よ。あなたの命を殺そうと、時をうかがっていることを知らないで、若い娘と遊んでいるよ。 と。そこで大彦命はこれを怪しみ少女に問う。「お前が言っていることは何のことか」と。少女は答えて言う。「言っているのではなく、ただ歌っているのです」と。そして繰り返し先の歌を歌い、忽然と姿を消した。

日本書紀崇神天皇10年

大彦命が少女と出会った場所は、古事記には山代(山城)の幣羅坂となっているが、日本書紀では上に示したとおり和珥(和爾)坂となっている。何とも奇妙な少女ではあるが、不審に思った大彦命はすぐさま磯城瑞籬宮に取って返し、崇神天皇にこのことを報告する。天皇倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと)に占わせる。童女の歌は武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)とその妻吾田媛(あたひめ)の謀反を告げるものと判明した。天皇は残った諸将を集め、これに備える。はたして謀反が起こる。武埴安彦は山背より、妻吾田媛は大阪より大和に攻め込もうとした。天皇吉備津彦命を派遣し吾田媛を討たせる。大彦命は副将彦国葺ひこくにぶくと共に武埴安彦を討ちとり、吾田媛吉備津彦命が討ってこれを鎮圧したという。その後北陸へ赴き、越国の土着の豪族たちを平定して同天皇11年4月己卯(28日)に帰命した。

いろいろと興味の尽きない物語ではあるが、ことに私がここで興味を抱いたのが副将の彦国葺の存在である。彦国葺は天足彦国押人命のひ孫。そして自身の孫の武振熊(たけふるくま)は和爾氏の直接の祖。そんな人物がこういった説話に登場すること自体、和爾の地とこの人物の浅からぬ関係を物語るのではないか・・・

さてこの物語、伝承上の物語であると言ってしまえばそれまでであるが、あながちお話の世界のものであるとは断言できないものがある。登場人物注のメインになる大彦命であるがとある考古学上の発見により実在の人物である可能性が強まってきたからだ。1983年に埼玉県稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣の存在がそれだ。この剣には

亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比 其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、名はタカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

との銘が確認されたが、そこには「意富比垝(おほびこ)」と刻まれている。おそらくはこの墓の主である「乎獲居(をわけ)」の遠祖であるというのだ。無論、この事実が史学上の事実をそのまま反映するとは思えないが、考古学上の成果と、古事記日本書紀の記述がこうやって微妙にリンクするのは、なにやら妄想がかき立てられてすこぶる愉快である。ちなみに銘文中の「獲加多支鹵(ワカタキル)大王」は古事記日本書紀に登場する大泊瀬幼武尊(おほはつせわかたけるのみこすなわち雄略天皇である。

ところで、私たちがこの日歩いた道に和爾坂と伝える石碑が建っていた。写真をお見せできれば良かったのだが、この日撮った写真を整理しているうちにうっかり消してしまった。自分の粗忽さ加減には実に以て情けないものを感じるが、ないものはないのだから仕方ない。

今私たちが上っている、この狭い坂道をそのまま古代の和爾坂と考えることは無理があるにしても、この説話に伝わる和爾坂がこの近辺にあったであろうことは古事記応神天皇の条に「伊知比韋能 和邇佐能邇袁(櫟井(いちひゐ)和爾坂(わにさ)()を)」とあり、その櫟井が東大寺領の櫟井庄(現櫟本町)であることからも容易に推定できる。というようなことを考えると、古代大和において和爾の地が主要な交通路であったと考えられてくる。

この説話において大彦命は北陸に向かおうとするさなか、その道の起点となる和爾坂にて不思議な少女にであった。

今を生きる我々がもし大和から北陸に向かおうとする時、どのようなルートをたどるのかちょいとご説明しよう。もしその人が、県の北部、奈良・生駒あたりに住んでいるなら間違いなく奈良、京都を結ぶ京奈和道から京滋バイパス、さらには名神自動車道から北陸自動車道という道筋をたどる。まあ、そのままの道筋では当然あり得ないのだが、平城京の住人たちも、おおむねこのルート(ただし、北陸自動車道は湖東を通るが、古代のルートは湖西であったように思われる)をたどり北陸に向かっていたと思われる。

が、もしあなたが大和盆地中部以南にお住まいなら・・・少々事情は異なってくる。無論好みによってそのルートの選択が変わってくるとは思うが、多くの場合、名阪自動車道で天理から福住に抜け、伊賀上野の先にある上柘植から信楽を通って粟東あたりから、北陸自動車道に抜けるという道筋をたどるはずだ。

古代の幹線道を現代のそれにそのまま当てはめることは無理も承知だが、道は敢えて歩きづらい場所を通りはしない。古代も今もさしては変わりない地形を考えたとき、そのルートは大筋では変化はないとするならば、大和から北陸に抜けるルートはこの二つのルートしかないと言うことになる。もちろん、現在もその姿をとどめる伊勢街道の存在を考えたときには、大和から伊勢に抜けてそのまま北に抜けるという道筋もかんがえられないではないが、これだとかなりの遠回りになる。

そして、先の物語の時代を考えたならば、大彦命の一行はこの和爾の地から、東に方向を変え、大和東部山地を抜けて三重県に出てそこ(これが今のように上柘植からなのか、伊勢湾に面した平野なのかはわからない)から北上する予定だったと推定できる。その重要な基点が和爾坂なのである。

そう考えたとき、この和爾の地は大和人にとって異界への入り口となる。そこにかくも不思議な童女が現れるのは、ある意味理解しやすいことではないか・・・と私は思う・・・なんてことを妄想しながら歩いていると、和爾の混み合った町中にご覧のようなかわいらしいお宮が見えてきた。

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和爾坐赤坂比古神社(わににいますあかさかひこ)である。創祀年代は不詳。和爾氏の氏神として成立し、延喜式にある和尓坐赤坂比古神社に比定されている古社である。神亀元年(724)以前から神戸が与えられたという添上郡屈指の大社であるが、今はご覧の通りである。

日本書紀』の神武天皇即位前年の条には「和珥坂下、有居勢祝者。」と見え、上に紹介した崇神10年の物語にも、上記引用の部分の後に「爰以忌瓮、鎭坐於和珥武鐰坂上。則率精兵、進登那羅山而軍之。」と見える。前者の「和珥坂の下、居勢(こせ)の祝といふ者有り。」という一文からは、この地に「祝・・・神官」がいたとことが窺われ、後者の「忌瓮(いはひべ)(神饌のための器)を以て和珥武鐰坂(たけすきさか)の上に鎭坐ゑ()、則ち精兵(ときいくさ)を率いて、那羅(なら)山(平城山)に進登(のぼ)り之と(たたか)ふ。」からはここに何らかの祭祀施設があったと想像される。

今はこぢんまりとしたかわいらしいお宮の創始がここに推定できそうな気がしてならないのだが、夢想に過ぎるであろうか・・・

さてさて、この一日旅行の目的地はあと二つ(とその後に一つ)、次回でやっとのこと最終目的地にはたどり着けそうだ。