大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道一日旅行・・・10

和爾(わに)坂を抜けると大和東部山地に向かって緩やかな扇状の西向きの斜面が広がる・・・一面、田圃・・・そして、その向こうに再び低い丘陵地が見える。ここもまた、大和東部山地から盆地につきだした丘陵である。その丘陵の一部に次の目的地がある。

初夏とは思えぬ強い日差しの中、私たちは緩やかに傾斜した扇状地の田園地帯を北に横切り、再び丘陵地帯に入る。深い、深い竹林の中の小径の先にその目的地はあった。

ipp

かつては舎人(とねり)皇子の陵墓とも考えられていた帯解黄金塚古墳である。考えられていた・・・という表現は、とりもなおさず今はそうは考えられてはいないということになる。2009年の奈良市教育委員会の報告によれば、この古墳の築造は7世紀中盤。舎人皇子は天平7年(735)11月に天然痘にて世を去っているというのだからどうにも勘定が合わない。

じゃあ、この墓の主はってことになるのだが、ほんの5年前まで舎人皇子のお墓だと考えられていた墓が今度は違う誰かのものだということになってもすぐに探し出せるはずがない。いまのとこを不詳としておくしかないであろう。さらには、それじゃあ舎人皇子の墓は・・・なんて疑問も当然生じるわけではあるが、これまたそんなにすぐにわかるわけはない。

舎人皇子は・・・天武天皇の皇子で、母は天智天皇の皇女新田部(にひたべ)皇女。719年十月、元正天皇より新田部親王と共に、皇太子(おびと)皇子(聖武天皇)の補佐役となる。そして、これが最も多くの人の知るところであるこの皇子の業績であるが日本書紀を720年に奏上。

先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷

続日本紀 養老4年5月癸酉条

同年八月、知太政官事(右大臣藤原不比等の死去の後を埋めるための人事か?)。不比等の死後、長屋王と並んで皇親政治の推進役となる。

そして注目したいのが神亀6年(729 天平元年)2月の長屋王の変である。これまで、ともに皇親政治の一翼を担ってきた舎人皇子は皇太子首皇子聖武天皇として即位した後、次第に藤原氏との結びつきを強めていた。長屋王謀反発覚の翌日、藤原宇合(うまかひ)率いる六衛兵の包囲する長屋王宅を訪れ、藤原武智麻呂(むちまろ)と共に舎人皇子は、厳しく長屋王を糾弾し自尽に追い込む。

その後、舎人皇子は長屋王藤原氏の対立の焦点であった光明子立后の勅を宣勅する。明らかに藤原氏の意に添うた行動と言えよう。そして、735年から738年にかけての天然痘の蔓延のさなか生涯を閉じ、 死後に太政大臣贈位された。若くして世を去った多くの天武天皇の皇子の中では唯一の長命を誇った皇子であった。

また天平宝字3年(759)にはその第7皇子である大炊王(おほいのおほきみ)が即位(淳仁天皇)、舎人皇子は死後にして崇道尽敬皇帝追号された。私が気にかかるのは、この最後の点だ(多分に妄想めいた話・・・というよりは全くの妄想になってしまうがよろしければお着きあい願いたい)。

実は聖武天皇はそれほど強健な身体の持ち主ではなかったらしい。加えて、長屋王の変の当時まで遡ると、他に皇位継承に適当な人物は非藤原氏系である安積(あさか)親王ぐらいしかいなかった。仮に聖武天皇とこの安積親王に何かがあった場合の候補としては、天皇の叔母である吉備内親王長屋王の間に生まれた膳夫王(かしはでのおほきみ)皇位継承の最有力の存在であった。しかしも、長屋王の権勢は強まる一方である。ここに、長屋王にもそれなりの野望があったとする根拠も生まれる。

ひるがえって、舎人皇子はどうか。父親は天武天皇、母は天智皇女、これまた天皇の後継としては申し分ない。ただ、当時の長屋王との力関係を考えた時、その芽はないに等しかった。ここに、舎人皇子の心中に野心の種が生まれたと考えるのは考えすぎであろうか。

この事変の15年後の天平16年(744)、皇位継承の第一候補であった安積親王は世を去る。これには藤原武智麻呂の後継、仲麻呂の陰謀の影がつきまとっている。そして、天平勝宝9年 (757)、聖武天皇の遺言(天平勝宝8年)によって孝謙天皇の皇太子となった道祖王(ふなどのおほきみ)は、その孝謙天皇により廃太子とされる。これにかわって孝謙天皇により皇太子に押されたのが大炊王であった(その後道祖王橘奈良麻呂の乱連座して獄死)。

これには、やはり藤原仲麻呂の意志が強く働いたものと見られているが、大炊王藤原氏との強い絆を物語るかのように、大炊王仲麻呂の子真従(まより)の未亡人である粟田諸姉(あはたのもろね)を妻とし、仲麻呂の私邸に住んでいた。そして、即位、淳仁天皇の誕生である。ここに、武智麻呂・仲麻呂という藤原氏と、舎人皇子家との強い結びつきを見ることに不自然はない。となれば、あの事変は・・・・と私は空想してしまう。

・・・いささか筆が走りすぎたようだ。最後に舎人皇子家のその後を蛇足ながら付け加えることにする。 淳仁天皇は後に、孝謙上皇により追放され死に至り、この流れはここでとだえ る。しかしながら、他の流れのひとつは後に皇統から離れ、清原の姓を名乗る。そしてその流れは、後に清原深養父・元輔、そして清少納言と平安朝の文学史に輝かしい名を轟かすことになる。万葉集

ますらをや片恋せむと嘆けども醜しこのますらをなほ恋ひにけり

万葉集二・117

を始めとする3首の足跡を残し、その周辺にも歌壇を形成していたと思われる、一人の歌を愛した皇子の流れが平安朝の代に、歌詠みの家として花を咲かせたのだ。

さて、今は舎人皇子その人の墓所であることを否定された帯解黄金塚古墳を訪れたことを契機として、私がそのような妄想を繰り広げている時、一行はすでに次の目的地に向かって移動を始めていた。次の目的地は崇道天皇八島陵である。

ipp

崇道天皇とは耳慣れない天皇の名である。それもそのはずで、歴代の天皇名の中にこの名は数えられてはいない。それではなぜ、そんな天皇の陵がこうやって存在しているか?・・・ということになる。

事の発端は・・・造長岡京使・藤原種継(たねつぐ)の暗殺事件である。その背後で動いたとされた桓武天皇の皇太弟早良(さわら)皇子は、皇太子を廃され淡路にながされる途中、無実を訴え絶食して憤死する。この事件の背景に何があるのかは私にはよく分らない。ただ、長岡京造営の責任者がねらい打ちにされたのだから、その犯行は、この平城京からの遷都を快く思っていなかったものが絡んでいることは疑えない。早良皇子は東大寺と深く関わりを持っていたため、それらの勢力の首謀者と見なされたのかも知れない。ただ早良皇子がこの事件に関わりを持っていたであろうことを裏付けるかのように、種継暗殺の際に捕らえられた大伴永主(おほとものながぬし)の父家持(やかもち)が東宮太夫として早良皇子の身近に仕えていた。

余談ではあるが、家持はこのとき持節征東将軍として東北は多賀城の地あって、その任地にてすでに没していた。が、息子がこの事件に関わっていたことから家持自身もこの事件の首謀者の一人と目され、その遺骸は埋葬を許されず、遺骸のまま流罪となる。

そしてその後、都、長岡京において凶事は続く・・・

788年、桓武天皇夫人・藤原旅子が病没。

789年、蝦夷征討軍、大敗。

790年、桓武天皇生母・高野新笠が病没。天皇夫人・藤原乙牟漏が病没。

791年、長岡京畿内天然痘が流行。

792年、桓武天皇長男・安殿親王が病に臥せる。長岡京で2度の洪水。

どうだろう。人々が怨霊の存在を信じ始めたのがこの時代からであった。これらの出来事が早良皇子の恨みによるものだと信じるものが多くても無理はない。そして、桓武天皇は再遷都を決意する。これが怨霊を恐れての遷都であることは、長岡京において建造が認められていなかった寺院の建立を認め、東寺・西寺を建立させたことからもうかがわれる。けれども、平安遷都の後も皇子の祟りはおさまってはいなかった。桓武天皇の政治的課題として、その怒りを収めることがあったことは否定できない。そして藤原種継暗殺事件の際に、罪を受けた者達に対する慰撫鎮魂が継続的に行われる。そんな慰撫鎮魂の諸政策の一つとして早良皇子は死後天皇の位が贈られる。これが祟道天皇である。

したがって祟道天皇は、天皇として在位はしていない。これがこの天皇が歴代の天皇の中にその名を数えられない理由である。

これで、この一日旅行の全日程が終わった。それぞれの場所において私のような者にもよく分かるよう解説してくださった先生方には感謝の念は絶えない。最後に・・・そんな先生方の名誉のために一言。この一連の記事で私が長々と書き記してきた内容は、その先生方のお話をそのまま書き記したものではない。むしろ、私の中の勝手な妄想の方が遙かに多い。ただ問題なのは、私の妄想だけがすべてでもないことだ。あるところまでは先生方のお話の内容を記したもの・・・そしてそのどこからかが私の妄想である。残念ながらその境目が、私の定かではない記憶のためにはっきりしない。したがって奇特にもこの一連のレポートに最後までおつきあいくださった方におかれては、「ふむふむなるほど」と納得いただけるような部分は先生方のご説明、眉につばをつけなければならぬような部分は私の勝手な妄想を書き記した部分と思っていただきたい。

おそらくそれで間違いない・・・