大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

百済寺に行く・・・下

神社とは・・・何やらそぐわない建造物が視野に入ってくる・・・

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と、前回の記事を結んでおいた。もう少し「背後に聳えたつもの」に近づいてみよう。

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小ぶりながらも、実に端正な三重塔である。そばの説明書きによれば、鎌倉時代中期の建立で重要文化財であるらしい。そのぐるりを巡りながらその端正な建立物を眺めていると、なにやら崇高なものに抱かれているような静かな心持ちになってくるのは、それが塔というものの使命だからであろう。

この百済寺は、以前は日本書紀・大安寺伽藍縁起併流記資材帳(以下大安寺縁起と記す)に記された百済大寺に比定するのが一般的であり、境内にある説明書きにもそのように記してある。

百済大寺とは日本書紀舒明天皇の11年に

秋七月詔曰、今年、造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以、西民造宮、東民作寺 秋七月(みことの)りして(のたま)はく 今年 大宮及び大寺を造作らしむと。則ち百濟(くだら)川の(ほとり)を以て宮處と爲す。是を以て 西の(おほみたから)は宮を造り 東の民は寺を作る

と記されたそれであると考えられているが、これがそのまま今私のいる百済寺とは結びつかないことは、前回、山部赤人の歌に詠まれた百済野が広陵町百済の地をさすものでないと述べたことで類推できるだろう。そのあたりの事情をもう一度奈良文化財研究所発行の「学報68 吉備池廃寺発掘調査報告」をなぞる形で説明したいと思う。

通説では、日本書紀の記事中にある百済川を現在、北葛城郡広陵町磯城郡田原本町と北流し同郡三宅町へと抜ける曽我川と考え、今回私の訪れた広陵町百済の地を百済大寺の旧地に比定されていた。この曽我川の東はかつての十市郡に属しており、万葉集高市皇子の挽歌には、その葬列が「百済の原」を経て、「木上宮(きのへのみや)(城上の宮)」へと向かう様が歌われており、

・・・百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ・・・・

柿本人麻呂 万葉集巻二/199

木上宮を広陵町内に比定できるとするならば、この説にさして無理はない。

しかしながら、この広陵町一帯ではそれらしい瓦や遺構がまったく見当たらない。さらには後世の記録にはなるが日本三代実録百済川は「大和國十市郡百濟川邊」と十市郡を流れていることを示しているが、広陵町百済の地は十市郡ではなく広瀬郡に属していることもこの説の弱点となる。よしんば、そのあたりを大目に見るとしても、日本書紀には「東民作寺」とあることからすれば、この大寺は百済川の東岸に位置すると考えられるが、広陵町百済は曽我川の遙か西に位置する。

そこで通説に疑義を挟んだのが和田萃氏である(『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 上』「百済宮再考」)。和田氏は橿原市高殿町に東百済百済・西百済(あざ)名が残ること、百済川と呼ばれる小河川のあることを根拠として、香具山北西麓の一体に百済の地を比定し、城上の宮を明日香村木部に求めた。

和田氏の考えは一時期多くの賛同者を得て定説化するが、反論が存在しないでもなかった。高市皇子挽歌には「百済の原」を高市皇子の葬列が通過したことを呼んでいるが、高市皇子の葬儀が行われた持統10年(696)において、この高殿のあたりは藤原京の域内に位置しており、これを「~~原」というのはふさわしくないというのだ。

こうしたなかで、渡里恒信は城上の宮の位置について新説を提示する(「城上宮について -その位置と性格-」『日本歴史』第598号)。ここでは詳細を省略するが、寺川・粟原川の合流点が城上の宮の旧地だというのだ。周辺に位置する桜井市橋本の青木廃寺・桜井市外山の宗像神社が高市皇子、その息子の長屋王と結びつきが強いことを考えても、またその近辺に木部という小字名が残っていることを考えてもこの説の蓋然性は高い。

高市皇子の居所は香具山の麓。そしてその葬儀の地が桜井市上之庄であるとするならば、皇子の葬列は香具山から磐余の地を抜けて東へと進んだことになる。そう考えると百済の原の地は香具山より東になければならなくなる。

というふうに考えてきたときに、考慮に入れたいのは1997年に発掘が始まった吉備池廃寺の存在である。桜井市は1990年代に入って香具山の北東に位置する農業用のため池である吉備池の周囲をコンクリートで護岸する工事を開始したが、その工事が池の東南部の古瓦が多く散らばる地に迫ってきため、奈良文化財研究所と桜井市教育委員会は共同で吉備池南部の遺構の様子を確認するため、その遺構の調査を実施する。当初は瓦窯跡と推定されていたこの場所であったが調査が進むにつれて窯跡を示す様子がまったくなく、逆に土壇状の高まり部分が建物の基壇があることが分かってきた。

その基壇らしきものの存在を確認するための本格調査が1997年1月に始まった。池に堆積する泥を除去すると、突き固めたれた堤の下端に北辺から西辺に向かって直角に曲がっている部分が発見され、間違いなくなにがしかの建物の基壇跡であることが確認された。その高さは2mを越え、この場所を瓦窯跡と推定していた根拠となる瓦も、穴に埋められた状態で発見され、その瓦は7世紀中頃のものと判明した。7世紀中頃といえば屋根に瓦を葺いた建物は寺院建築以外にはない。調査が進むにつれその基壇は金堂跡である可能性がでてきた。しかもその規模たるや東西37m、南北25mの規模を誇る巨大なものであった。この時代(飛鳥時代)の他の寺院の金堂に比べた時、この廃寺の近藤の規模は群を抜くものであった吉備池廃寺と仮称されたこの寺の発掘調査は、堤の護岸工事を中止させ、1997年度から2000年度まで延長されることになった。

さらに翌年(1998年)には、金堂推定建物の西、54mの地点から巨大な正方形の塔基壇とおぼしき土壇が見つかった。東西25,9m、南北26,7m、高さ2m余の並外れた規模の塔基壇だった。この塔跡の発見によって、伽藍配置は金堂と塔とが南面して東西に並んで建てられた法隆寺様式であることが分かったが、この基壇の大きさは先に示した日本書紀舒明天皇11年に「是月、於百濟川側建九重塔」と記された「九重塔」の塔の基壇として考えざるを得ない規模のものであった。

また、1998年から1999年の調査において回廊跡も発見され、その東西線は中心間の距離で約153mもあり、後の文武朝に建立された大官大寺のそれを15mも凌ぐものだった。北面回廊の推定される地の北では、多量の瓦が出土し、付近に講堂があったと推定されているが、その遺構はまだ見つかっていない。こうした一連の発掘調査によって、吉備池廃寺は東西180m、南北160m以上の巨大な寺院であったことが分かってきた。

このような巨大な寺院は諸豪族の私的な寺ではあり得ない。必ずや公の性格を持つ寺であったに違いない・・・と考えたとき、先に挙げた日本書紀舒明天皇11年の記事の「詔曰、今年、造作大宮及大寺」という一節が脳裏に浮かんでくる。

勅命によって作られた寺・・・それが百済大寺であった。

上述のごとくこの吉備の地がかつて百済野と呼ばれていた可能性は高い。時期的にもその瓦の年代から考えて、舒明天皇11年頃の建物である可能性は高い。しかも、この規模である。この吉備池廃寺を百済大寺と比定することは、今のところもっとも可能性の高い考えだということが出来よう。

さて・・・そうなると、今私の眼前にある百済寺は・・・

残念ながら、そう由緒は杳としてしれない。

ただ、この美しい三重塔が鎌倉時代のものであることを考えたとき、それはそれで由緒の古い寺院であることは知られよう。今分かっているのは、室町時代には多武峰領となっており、慶長年間(1596~1615)には6坊を数えたが、次第に衰退し江戸時代後期の天保年間(1830~1844)には中之坊と東之坊の2坊を残すのみとなったことのみである。現在の春日若宮神社社務所は中之坊の後身であるというが、東之坊の姿は現在見当たらない。

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そして、その境内から道を挟んでぽつんと立っている本堂は、現在土地の人々に大織冠(たいしょくかん)と呼ばれている。大織官とは藤原鎌足のこと。その藤原鎌足が祀られている談山神社から移築したものと伝えられるゆえのことであろう。