読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

田原の里へ・・・滝坂の道(上)

小説の神様が「暗夜行路」を執筆したという旧居をあとにして私たちは東へ・・・春日山高円山の谷間に向かい東に歩みを進める。道は何時しか薄暗い木立の中に入る。そして道はその木立の中へと延々と続いている。

柳生街道に入ったのだ。 柳生街道01 柳生街道01 posted by (C)ろごきっと 柳生街道はご存じ柳生石舟斎が開いた柳生の里への通い路。柳生心陰流の発祥の地。後には徳川将軍家の兵法指南役として柳生藩1万石の大名になった柳生宗矩柳生十兵衛、さらには鍵屋の辻の決闘で知られた荒木又右衛門など名だたる剣豪を輩出した山里である。また若き日の宮本武蔵もこの地にて修行に励んだこともよく知られた事実である。

道は能登川沿いに春日山高円山の谷間を遡る峠道となっていて、やや急な坂道である。至る所に小規模な滝が見え、滝坂の道の異名を持つのもこの景観ゆえのことだとすぐに了解できる。かつて山岡荘八によって著された「春の坂道」とは、この道のことである。

鬱蒼たる木立に覆われた辺りは百人一首

奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき

猿丸太夫 古今集・秋上

なんて歌をついつい口ずさみたくなるような気になってくる。私たちがここを歩いた11月下旬(だったかな?)は、何処からか鹿の妻問いの声が聞こえて、まさにこの歌にふさわしい風情であった。そして、所々に江戸中期には整備されていたという石畳が見え、そんな王朝の優雅さとは裏腹に、かつてこの道を闊歩した剣豪たちのことを思わず想起してしまう。

実はこの滝坂の道は、昭和の初めまで盛んに使われており、柳生方面から米や薪炭などを奈良まで運び、その帰途には、衣類や日用雑貨などを運んでいたという生活路としての役割を果たしていたという。訪れれば分かることだが、人里から隔離された山奥に位置する柳生の里においてはかような生活路は必需のものであったのだろう。江戸時代にこの道の整備が急がれたのは、それが柳生藩にとってどうしても必要なものであったからに違いない。

あまり広くはない渓流沿いの傍らを遡って行くと、まず最初に出会うのが「寝仏」。 柳生街道07 柳生街道07 posted by (C)ろごきっと 単なる自然石としか思えない岩であるがよく見ると愛らしい仏さんが刻み込まれている。おそらくは道沿いに立っていた自然石に彫り込まれたものなのであろうが、その上を通り過ぎた長い歳月が、この可愛らしい仏様を眠りへといざなったのであろう。

次は夕日観音だ。

E5A495E697A5E8A6B3E99FB3

街道からやや離れた崖の上に、こちらを向いた状態でうつむき加減に静かに立っておられる。正面から夕陽を受けるようなむきに立っていらっしゃるのでそのお名前があるのだが、本当は阿弥陀様なのだそうだ。

さて、夕日とくれば次は朝日であろう。

柳生街道09朝日観音 柳生街道09朝日観音 posted by (C)ろごきっと その名の由来は、もう申し述べる必要はないであろう。文永二年(1265)の銘が彫り付けてあるそうだが、その説明書きには、先に述べた夕日観音と同じ作者によるものだという。こちらも「観音」とは呼ばれているが、実際は弥勒菩薩、その両側にはお地蔵様が地蔵尊が彫り込まれている。

これもまた手を合わせながら、その御顔を拝見すると思わず微笑みたくなるような・・・そんな可愛らしい仏様である。