大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

田原の里へ・・・太安万侶の墓

峠の茶屋にて昼食を終えた私たちはこの日の目的地へと向かう。石切の峠もその頂点を越えているから、あとは緩やかな下りをゆるゆると歩みを進めるのみだ。距離にして4㎞弱。時間は1時間もかからないほどの場所に太安万侶の墓はある。

狭い山あいの道を歩いていると、道の左に急な斜面に広がった茶畑が見えてくる。

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かなり急な斜面であるが、この当時の私には何の苦も無く登れたように記憶するが、せんだって、この写真を撮るために再びこの地を訪れ登ってみたら・・・息は切れるは、鼓動は激しくなるは・・・30年以上の歳月はこんなにも私の体を衰えさせたことを実感した。

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円形にきれいに成形された石積みの中に、こんもり盛り上がった墳墓・・・ここに今をさかのぼる事1300年余前の720年、現存最古の史書を編纂した、太安万侶が眠っている。

ただし、この墳墓は1979年1月に発見された当時には、当然のごとく存在してはいなかった。周囲とは変わらぬ茶畑の一画に過ぎなかった。その茶畑の主竹西英夫さんはいつもの通り、茶畑の斜面で鍬を振り下ろしていた。これまで栽培していた在来種に変えて、品質の安定した「やぶきた」に植え替えるためである。、それまでの茶の根を1本1本、ていねいに引き抜いていた。

そんな作業の最中、竹西さんはふと手を止めた。炭のような黒いものが一つ目に入ったからである。

はたして・・・その黒いものは炭であった。竹西さんはその場所を炭焼き場の跡地ではないかと考えた・・・が、その判断は、ご想像の通り間違いであった。

後日も、炭ならばそれはそれで使いではある・・・そう考えた竹西さんは、その場所で炭を拾い集めた。ふと・・・奥行き40㎝ほどの穴が有ることに気付いた。白い灰が見える。そして数cmほどの小さな骨が一つ、その中に混じっていることに竹西さんは気づいた。

灰の下には、箱らしきものの底板も見えた。裏返すと・・・なにやら文字が・・・

「・・・太朝臣・・・」とだけは、なんとか読めた。骨の大きさから、それを子どもの墓だと判断した竹西さんは、この墓を供養した上で茶畑の開墾を進めようとして、地元のお寺の住職を訪ねた。が、住職は所要のすぐには供養できないという。そして数日後、ひょんなことから、この事実は近所に住む郷土史家川端茂男氏の耳に入り、現地に見に来てくれることになった。数日後、川端さんは興奮しながら竹西さんのところにやってきてこれが歴史的な大発見であることを告げた。

竹西さんの発見した「箱らしきものの底板」には

Bronze_epitaph_plate_in_8th_c_from_Ono_Yasumaro's_tomb

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥 年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳

と書いてあった。

歴史的な大発見である。それまで太安万侶はその実在を疑われており、そのことを根拠に古事記偽書であるとの説も一部にはささやかれていたのだから、この発見はそれらの疑いを一気に払拭するものであったからだ。

・・・と、発見当時の様子をさも見て来た様に語ってきたが、本来私がそんなことを知っているはずもない。以下のサイトの文章を敷衍したのみである。

http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c12/index.html

http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c13/

であるから、詳細は上をクリックし確認していただきたい。

私たちがこの場所を訪れた時、朝から降り続いていた雨は小やみになり、私たちはこの急斜面を苦も無く斜面を登ることが出来た。下の写真はその時のものである。

太安万侶墓所

ここまで小さくしか写っていないのならば、一人一人の顔を見苦しく隠す必要も無かろう。お分かりのように何の遠慮もなく写真の中央に茶色のコートを着ているのが私である。

歴史的大発見からは恐らく2年後・・・あるいは3年後の太安万侶の墓は、このようにささやかな木製の墓碑が立っているのみであったが、私たちはそこに祀られている主の偉業に敬意を表し、しばしの間見入っていた・・・