大和逍遥   

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田原の里へ・・・二つの御陵

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太安万侶の墓より望む田原の里である。茶畑と、稲田のほかは何も視野に入ってこない、そんな静かな山里である。時折訪れるハイカーのほかは、里人以外の姿はあまり見かけない・・・無論、この里の主要道である県道47号線・80号線には、ときおり自動車が走りすぎる姿を見るが、それとて街中の騒音に比べればなきがごとくである。

静かな・・・まことに静かな山里である。

こんな山里に古事記の編集者太安万侶は1200年以上、眠り続けていた。そして、この静かな山里に同じように1200年以上の永い眠りについている方が、二人いらっしゃる。天智天皇の第7皇子である志貴皇子(しきのみこ)と、その皇子の光仁天皇白壁王)のお二方である。

順番からいえば、御父君である志貴皇子の方から先にご説明するべきであろうが、この日の行程はその逆、光仁天皇陵の方を先に回ったので、今日もそれに倣うこととする。

太安万侶の墓から光仁天皇陵までは東に1㎞弱、徒歩にして10分強の道のりである。

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ご覧の様に稲田に囲まれたごくごく控えめな御陵である。白壁王は志貴皇子の第6皇子、神護景雲4年(770)、称徳天皇崩御を受けて同年10月に、62歳にして即位する。この時代、皇位は、壬申の乱の勝者となった天武天皇の裔によって受け継がれていた。天智天皇の流れをくむ白壁皇子にとって、まさに縁のないものであった。しかしながら、平城の御代における度重なる政変よって天武系の嫡流皇族がいなくなっていた。さらにはその血を受け継いでいた称徳天皇は独身の女帝ゆえ、その後継たる皇子はいなかった。そこで、白羽の矢を立てられたのが白壁皇子であった。白壁王はその妻が井上内親王聖武天皇の皇女であり、その妻との生まれた他戸(おさべ)王は女系ながらも天武天皇の血を引く男性皇族の最後の一人であったことが大きな要因となった。なんとしてでも天武天皇の裔に皇位を受け継がせようとの称徳天皇の遺志が、そこには働いていた。

ただ、白壁王も平城の御代における血で血を洗う粛清の嵐に無縁のまま62の齢を迎えたわけではない。皇位には縁遠い立場にあったとはいえ、度重なる政変で多くの親王たちが粛正されて行く中、白壁王は専ら酒に韜晦しその身を保ったと言われている。

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続いては志貴皇子の御陵である。その皇子、白壁王が思いがけず皇位について為に、春日宮御宇天皇の追尊を受けた。よってその御陵もまた春日宮天皇陵と呼ばれている。志貴皇子の母親は越道君娘、地方豪族の家の出身で卑母であった。これに加えて、上述のように、壬申の乱以降、皇位天武天皇の血脈に受け継がれて行くことになったため、皇位とはほど遠い立場にあったこの皇子は、それが故に皇位に対しては一切の執着を見せることもなく人生を過ごすことになる。

おそらくはそれが彼にとっては幸いだったのかもしれない。皇位にはほど遠い立場ゆえに、汲々とすることもなく、様々な陰謀に身をさらすこともなく、穏やかで安らかな人生を送ることの出来た志貴皇子は以下のような清澄で繊細な名歌を残し、後世に名を残すことになる。しかも、その死後とは言え、その皇子が皇位につくことになり、その血脈が現在に至るまで長く続く事となったのだ。

采女の袖ふきかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く 万葉集巻一・51

葦辺ゆく鴨の羽交に霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ 万葉集巻一・64

石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも 万葉集巻八・1418

そうそう、

むささびは木末求むとあしひきの山の猟師に逢ひにけるかも 万葉集巻三・267

なんて歌もあった。この歌には寓意が込められているとする考えがある。すなわち「むささび」は政争で命を失うことになった皇子達を暗示していると考えられよう。そして「木末」は皇位となる。さらには「山の猟師」はその皇子達を志に追い込んだ人々というふうに考えらるのである。一方には寓意などは考えずに素直に味わうべきであるとする二つの考えが存するため、私にはいずれとも判断できないが、仮に寓意が込められているとするならば・・・その皇子、白壁王は見事にその教えを受け、「萌え出づる春」を迎えることが出来たのだと夢想してもみたくなる・・・