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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道・・・大鳥の羽がひの山

かつて長々と書き連ねた山辺の道と題したシリーズも昨年の1月の長岳寺についての一文を最後に途絶えている。これらの記事は一つにまとめ、上のメニュー(大和逍遙>山辺の道)から見るこことが出来るようにしているが、あまりにも間を置きすぎたため書いてきた私でさえ、その存在を忘れてしまっているような有様である。けれども、せっかくここまで書き連ねてきたのだから、最後まで・・・石上神宮まで書き終えてしまわないとどうにも寝覚めが悪い。

ということで、今更の感がないでもないが、なんとか最後までたどり着いてみたいと思う。


長岳寺の参道の西端から、道をさらに北に進む。このあたりは道は細く入り組んでいてかなりややこしいが、要所には道標があるのでそれを見落としさえしなければ迷うこともない。ほんの5分も歩けば中山町の家並みに入る。そしてこの家並みを抜けて程なく道の右側に巨大な石碑が建っているのが見える。柿本人麻呂の一首が刻まれた万葉歌碑である。

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 衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無

とそこには刻まれている。これを訓読すれば

衾道(ふすまぢ)を 引手(ひきて)の山に 妹を置きて 山道を行けば 生けりともなし

となるが、これは万葉集の巻二に収録されている柿本人麻呂の「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌」と題された痛切な亡妻挽歌の内の一首である。最愛の妻を失った人麻呂の悲傷、は長歌2首、短歌4首(別伝を入れれば長歌3首、短歌7首)の歌群において切々と歌い上げられているが、その末尾を飾るのがこの短歌である。

引手の山に妻を置いて、寂しい山道をたどると、とても自分が生きているとは思えない。

と言うのがその大意である。歌中の「衾道を 引手の山」であるが、まず「衾道を」について。

「衾(蒲団)」を引き寄せるの意から「引く」の枕詞であるという理解がある。そして、その枕詞によって引き起こされたのが「引手の山」と言うことになる。また一方ではこの辺り一帯がかつて「衾道」と呼ばれていたと言う考えがあり、その考えにのっとれば、衾道にある「引手の山」と言う理解になる。私にはどちらとも定めがたいが、私が今日語りたいと思っているのはその後の「引手の山」であるから、ここはちょいと目をつぶっておこう。

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「引手の山」については、全く異論が無いわけではないが、これをこの歌碑から東に連なる龍王山さすというのが大方の理解である。龍王山は三輪山の北方、桜井市から天理市にかけて連なる山々のことで、山辺の道は巻向の辺りから、この連山の山裾をうねりながら走る。したがって、この歌碑がここにあることにはいささかの不自然もない。私が注目したいのは、先に紹介した歌群の2番目の長歌の中にある次の一節である。

昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽がひの山に 我が恋ふる 妹はいますと 人の言へば

大意をまとめるならば、妻を亡くし、昼も夜もなく嘆き続ける人麻呂に「あなたの恋しいあの方は大鳥の羽がひの山にて見かけましたよ」と誰かが教えてくれた・・・となるが、これは、親しい誰かを失い悲嘆に暮れている者に対して、「その人をどこそこで見かけましたよ」と言ってその気持ちを慰めようとする当時の習俗によるものである。誰かが「大鳥の羽がいの山」に人麻呂の妻が教えてくれたのだという。そしてその言葉にすがり、人麻呂は「大鳥の羽がひの山」に妻の姿を求めようとする。けれども、その姿はどこにも求めようもなく、人麻呂一人寂しく、「大鳥の羽がひの山」の山中を歩き続ける。そしてその心境を「生けりともなし」と歌ったのが、件の短歌である。とするならば、長歌中の「大鳥の羽がひの山」とこの短歌の「引手の山」は同一の山を指すことになる。そうなると「大鳥の羽がひの山」もまた龍王山と考えるのが穏当であると言える。

かつて、この「大鳥の羽がひの山」については

 春日なる羽がひの山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるは誰れ呼子

万葉集巻十・1827

の用例を以て、現在の奈良市春日の辺りの山と考える向きがあった。

 

この山は卷十「一八二七」に「春日有羽買之山從(カスガナルハガヒノヤマユ)とも見えたれば、大和國添上郡春日に在りし地名と見ゆ。

萬葉集講義・山田孝雄

春日山を脊にして聳ゆる三笠山三笠山を頸部及び頭部として春日山は大鳥の羽易の山の如く壙がりたると見る・・・引手・羽易兩山ともに春日山のことか、その中の一峯であつたらう。

北島霞江・萬葉集大和地誌

「春日有(カスガナル)羽買之山從(ハガヒノヤマユ) 狹帆之内敝(サホノウチヘ)鳴往成者(ナキユクナルハ)孰喚子鳥(タレヨブコドリ)」(卷十、一八二七)の羽買の山と同山と考えられ、依つて春日にあることが知られる。

武田祐吉萬葉集全註釈

しかしながらこの「大鳥の羽がひの山」と「引手の山」が同一の山を指すことは、上述の通りである。そして「引手の山」が龍王山をさすものであることは大方の考えが一致していることから、ここの「大鳥の羽がひの山」を「春日なる」とすることにはかなり無理があると言わざるを得ない。その辺りのことをふまえてか、萬葉集全註釈の著者は

反歌に、引手ノ山ニ妹ヲ置キテとあり、引手の山との關係が問題になる。或る本の歌には、その求める妻が灰である由に歌つているから、もしそれをこの歌の原形とすれば、火葬地であつたのであろう。妻の死が、既に奈良時代にはいつているのであろうか。

と述べる。すなわち妻を火葬したのが「大鳥の羽がひの山」であり、その灰を埋葬したのが「引手の山」という理解である。しかしながら、やはりこの二つの山を別のものとすることにはどうにも抵抗を感じる。柿本人麻呂は明日香・藤原京の時代の人で、平城京の時代になるとその歌にはとんとお目にかかれなくなってくる。加えて、時代順に並ぶ万葉集巻二において、これらの歌群の位置を見るにどう考えてもこの歌が平城京に都が移ってからのものとは思えない。振り返って、龍王山は明日香・藤原京からは常に三輪山の北側に見える山である。やはりが「引手・羽易兩山ともに」龍王山とするべきであろう。

とするならば、なぜここで柿本人麻呂は龍王山を「大鳥の羽がひの山」と読んだのか・・・と言うことが問題になってくる。上掲の萬葉集大和地誌によればその由縁は大空に両翼を広げたる三笠・春日の両山の山容にあるという。ならば、この龍王山はどうであるか・・・

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上の写真は明日香村橘寺のあたりから見た山並みである。三輪山を中心に向かって右が巻向山、左が龍王山である。以下、今回の記事の元ネタになる「大鳥の羽易山」(大濱厳比古・萬葉46号 昭和38年p44~p48)の一節を引用してみよう。

私はひとり飛鳥を歩いてゐて思はず聲をあげた。鳥が飛んでゐるのである。それもまさしく「大鳥」が。橘寺の東門を出て、左手に折れないで、右手東南に、石舞薹古墳の方へ、やゝ高みをめぐつてゆく小徑がある。その徑を歩いてゐて、ふと三輪山の方を見やつた途端、私は聲をあげたのである。「あゝ飛ぶ鳥の明日香だ」と。そこからは。川原宮・岡本宮・浄御原宮と飛鳥古京が一望に見渡せるのであるが、その古京の彼方の空を、三輪山を頭部に、龍王・巻向を兩翼として、いつぱいに翼をひろげて天翔つて來る大鳥の姿を見たのである。

正直に白状すれば、私が突如、この山辺の道についての連載を再開させようと思ったのは、上の大濱氏の文章をふと思い出すきっかけがあったからである。そういえば・・・山辺の道についての連載が長岳寺でとだえていたな・・・その次は、この歌碑についてだな・・・と。

そのきっかけとは、先日の記事で紹介した萬葉学会一日目に行われた講演を聴いたことである。当日、二つあった講演の二つ目、前学会代表の坂本信幸先生より「天理と万葉歌」と題されたお話の中で、この「大鳥の羽がひの山」について語られた。その際に先生は、その大学時代の師であった大濱氏のこの一文に触れられたのである。

坂本先生は講演の途中、「大鳥の羽がひの山」について語り始めた時、不意に演題から離れ傍らのホワイトボードに向かった。そしてその真っ白な背景に黒のマジックペンで三つの山の姿を大きくお書きになった。多くの聴衆は、おそらくその三つの山が何であるかはすぐに悟ったことであろうと思うが・・・その後だ・・・先生はその三つの山に、その右手に持ったマジックペンで更に何かを書き込んだ。会場から思わず静かな笑いが漏れた。

その書き込みを、私なりに上に示した写真に重ね合わせてみたのが下の写真である。

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少々漫画めいてはいるが、そこには見事に「大鳥」がその両翼を広げている・・・

これらの三つの山は柿本人麻呂が活躍した、明日香京・藤原京からはどこからでもこのような姿で見える。万葉人にとってましてや三輪山は大物主のおわす聖なる山。日ごとその「大鳥」が羽ばたく姿を仰ぎ見て祈りを捧げていたはずである・・・と、先生は語り続ける。もちろん柿本人麻呂もその中の一人である。そして・・・その柿本人麻呂が「大鳥の羽がひの山」と歌ったとき、聴衆の脳裏に浮かぶ山は・・・どうしてもこの三つの山でなければならなかったのである。

さて・・・ここまで「大鳥の羽がひの山」について語ってきて、ふと年来の疑問が頭をもたげてきた。それは上掲の大濱厳比古の「大鳥の羽易山」についてのものである。私は大学には行って早々の頃、この一文に触れ、いたく感銘を覚えた。この一文が掲載されたのは万葉学会の機関誌「萬葉」である。純然たる学術雑誌である。そんな論理の上にさらに論理を重ねた精緻な文章によって埋め尽くされた学術雑誌の中にあって、このような詩情に富んだこの一文は実に異質に思えた。あまり論理的ではない私の脳みそには実に心地よくしみいってきたのである。何度もくりかえし読んだ・・・そして読むたびにある疑問が生じてきたのである。

その疑問とは・・・

上掲の引用でも分かるように大濱氏は明日香から見たところの、この三山の山容について論を進めておられた。けれども・・・実際にこの文章に添えられた図は次のようなものであった。

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これはどう見ても、明日香から見た姿ではない。もっと北、桜井市北部や天理市南部から見た三山の姿である。下の写真は、この図と同じように見える位置から撮ったものであるが、撮影場所は橿原市竹田の地からの遠望である。緯度からすれば桜井市北部と一致する辺りである。

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その文章においては明日香からの遠望した山容を述べ、挿入された図は別の場所から見た姿なのである。大濱氏はなぜこの図をここに用いたのか・・・なぜ、明日香から見た「大鳥」の姿を使わなかったのか・・・これが私の積年の疑問であった。

私は講演会の後に催された懇親会の場において、私のそばにいらっしゃった講演者の坂本先生に勇気をふるってお聞きしてみた。大学時代の教え子であるならば、何か知っていらっしゃるのではないかと思ったからである。すると先生も同じ疑問を学生時代に感じておられたようで「そのことは俺も聞いてみたんやけどなあ・・・」とおっしゃったうえで「『あれでええねん』としか言わへんのや」とお答え下さった。少々酔いも回っていた頃故、記憶も定かでは無いが大方こんな御言葉だったかと記憶する。

大濱氏はなぜこの文章の中において「大鳥」の羽ばたく明日香からの眺望をお示しにならず、その側面から見た姿を示されたのか・・・以下に私なりの推察を示してみたいと思う。もちろんあくまで私なりの勝手な推察であるから、あまり参考にはなさらないでいただきたい。

そもそも「羽がひ」とは鳥が羽を閉じたときに、その胴部の後ろで両翼の交差する部分をいう。 考える鴨 考える鴨 posted by (C)白石准

決して「大鳥」が羽ばたく、その時には生じ得ない。とするならば明日香から見たこれら三山の「大鳥」が羽ばたく姿は、人麻呂のいう「大鳥の羽がひの山」にはふさわしくないものになる。この三山が「大鳥」とすることが動かないとするならば、その「羽がひ」はいかなる時に生じるのか・・・大濱氏は、その解決として、「大鳥」を横から見た姿の図を示されたのではないか・・・この三つの山を西から眺望したとき、龍王山は図に示されたように胴部に当たる。そしてその北側の山裾はまさに「羽がひ」に当たる部分になる・・・と氏はお考えになったのではないか・・・

賢明なる読者諸氏は、こんな私の戯れ言をまさか真に受けるようなことはなさらないであろうから、更に私は妄想をふくらませる。

私はこの人麻呂の歌を読むとき、いつも次の歌を一緒に思い浮かべてしまう。

天平五年癸酉遣唐使舶發難波入海之時親母贈子歌一首 反歌 旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群

萬葉集巻九・1790

題詞にあるようにこれから遣唐使の一員として、日本海の荒波に身をゆだねようとする男の母親の切なる願いを歌った歌である。「霜の降るような寒い朝には我が子をその暖かな羽翼をもって優しく包み込んでおくれ・・・天なる鶴たちよ・・・」と母親は眼前の(いや、眼前にはなかったかもしれない)鶴の群れに呼びかけた歌である。

唐突な連想であると言われたならば言い返す言葉もない。しかしながら・・・己が妻の墓所を「羽がひ」と見立てようとした人麻呂の心情の核はここにあるように思えるのだ。灰となって埋葬された人麻呂の妻は、これからは屋根もない「かぎるひの 燃ゆる荒野(萬葉集巻二・210)」で過ごすことになる。ましてや、どのように寒い朝であっても、体を温める火などあるはずもない。人麻呂はそんな妻の埋葬の地を「大鳥の羽がひ」と見立てることによって、妻が暖かな羽翼に羽ぐくまれているかのように思いたかったのではないか・・・

山辺の道案内のつもりで書き始めたこの一文であったが、大幅に道からそれてしまった。けれども、この万葉歌碑の背後に広がる龍王連山の仰ぎ見つつ、今から1300年以上も前の妻を亡くした一人の男の悲哀を思い浮かべてみるのも、山辺の道を歩く醍醐味の一つでもある。

諒とせられよ・・・・

 

 

※大濱厳比古氏の「大鳥の羽易山」は上に示したリンクから全文を読むことが出来る。合わせてご覧いただければ幸いである。