大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

続 手紙ー筆先に込めた想いー

まずはご存知、漱石先生。

Natsume Souseki ・・・大学で語学試験の嘱托する、僕が多忙だから断はる。其間に何等の文句は入らない。もしそれが僕の一身上の不利益になったり、英文科の不利益になれば、僕のわるいのぢやない。大学がわるいのだ。語学試験なんか多忙で困つてる僕なんか引きずり出さなくたつて、手のあいて居る教授で充分間に合ふのだ。僕なんかは多忙のうちに少しでもひまがあれば、書物を一頁でも讀む方が自分の為にも英文科の将来の為にもなると思つて居る。語学試験を引き受けないでけしからんと思ふなら随意に思ふがよい。・・・

夏目漱石姉崎正治宛に送った手紙である。姉崎正治は日本の宗教学の草分け的存在で、当時漱石と同僚であったものだと思われる。前後を察するに、学長あたりから入試の語学の担当を命じられ、それを断った漱石に彼と関係のあった姉崎が、学長の意を受けてか、学長の命を無碍に断る漱石の身の上を心配してか、その命を受けるようにとの説得の手紙を送った・・・それに対する返事であろう。「多忙だから断はる・・・・もしそれが僕の一身上の不利益になったり、英文科の不利益になれば、僕のわるいのではぢやない。大学がわるいのだ。」とはまさに漱石の面目躍如、さらに漱石先生は続ける。「僕なんかは多忙のうちに少しでもひまがあれば、書物を一頁でも讀む方が自分の為にも英文科の将来の為にもなると思つて居る。」と。私も一度でもいいから上司に向かって「私なんかは少しでも暇があれば、酒でもかっ喰らっていた方が自分の為にも会社の為にもよっぽど為に為になる・・・」なんて啖呵を切ってみたいものだと共感すること頻りであった。

続いてもう一つ・・・小説家になろうと学校(松山中学)をやめる決意を告げる河東碧梧桐からの手紙に対する正岡子規の返事。

Masaoka Shiki 御手紙拝見致候。益々御清祥奉賀候。御申越之趣にてハ、いよいよ学校御退学と御決定被成候由、誠ニめでたく存候。それ位之御決心なくてハ、小説家にハ迚も※1なれ申すまじく、天ツ張れ見上げたる御事かなと祝ひ申候。虚子君の復校せられてよりまだ半年も立たぬ内に、又々貴兄の退校とハよくよく入組んた仕掛にて、天公※2の戯謔も亦おもしろく候(以上世界観) 然れとも、小生一個より見れバ、矢張退校之事ハ御とめ申候。殷鍳※3遠からす虚子兄にありと存候。学校をやめる事が、なぜ小説家になれるか一向に分からぬ様に思ハれ候。学校をやめて何となさる御積りか。定めて獨学とか何とかいはるゝならん。なれとも獨学の難きハ虚子兄の熟知せらるゝ所に候へば、同兄よりお聞取り成さるべく候・・・<中略>・・・兄の退校ハ先日の虚子兄と同じく学校がいや(〇〇)といふ一点より湧き出した考にて、学校を出て後、始めて学校の極楽場たるを知るの愚を学び給はぬかと推察致候。

※1 迚も・・・・とても  ※2 天公・・・天帝  ※3 殷鍳・・・殷鑑

いかがであろうか・・・今の世でも、多感な年ごろのお子様をお持ちの家庭や、学校で夢多き青年と先生との間で交わされそうな言葉なのでないかと「推察致候」。この手紙が交わされてからもう100年は立っているだろうに・・・現状さえ変えれば何かが変わる・・・と信じ込み、その変化が自らの好都合の変化であると確信する若者の安易さ、そしてそれをなんとか考え直させようとする人生の先達の論理は今もなお変わらない。かの俳句革新運動・短歌革新運動の旗手たる正岡子規と、その弟子であるところの河東碧梧桐との間にも、どれと同様のやりとりがあったことは実に興味深い。

この手紙の意を汲んだ結果なのか、別の事情があったのかは知らないが、碧梧桐は結局、松山中学を無事卒業する。その後旧制第三高等学校を経て第二高等学校に転入し途中退学。以後明治35年(1902年)に子規が没するや、彼の担当していた新聞「日本」の俳句欄の選者を受け継ぎ、明治38年(1905)頃から五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り始めことはみなさんの承知の通りである。

最後に谷崎純一郎の手紙の末筆に添えられた一文。例の佐藤春夫との奥さんをどうしたこうしたの騒動(細君譲渡事件)の直後の昭和5年(1930)8月に、根津松子という女性に、己が妻となるべき女性の紹介を依頼した一文のその末尾に・・・

Junichiro Tanizaki 1913 家は来月下旬頃京都に持たうかと思ひますが、人間は京都人はきらひ故、大阪以西の人を女中につれて行かうとおもひます。二人ぐらひ可愛い小間づかひが欲しいのです(決してわるい事はいたしません)

京都に家を持とうとする彼がなぜ「京都人がきらひ」なのかはよく分からないが、(  )の中がなんとも愉快だ。女性関係に関しては何かと話題の尽きない谷崎ゆえ、相手を安心させようと一言添えたものであろうが・・・果たしてその一言に説得力があったのか・・・それは受け取った松子にしか分からないことである。

この根津松子なる女性は後に谷崎松子となり、「細雪」の四姉妹の1人のモデルともなる女性であるが、谷崎とこの女性が初めて出会ったのは昭和2年(1927)3月で、雑誌「改造」の講演会のため来阪した芥川龍之介を松子が尋ねてきたときのことで、谷崎はこの24歳で一児の母に一目惚れしたのだという。当時松子は根津商店という大阪の大会社の御曹司清太郎の妻であった。根津家は大阪市東区本町三丁目で貿易商・木綿問屋を営んでおり、大阪の現靭公園の殆どを所有していたほど資産家で、今の総合商社に匹敵していたという。一目惚れしたとは言え、関東大震災後の混乱した東京からから逃れ大阪に移住してきた一介の文士谷崎には手の出る相手ではなかったようだ。

しかし清太郎は生来の放蕩家、しかも素行もよくなく昭和4年(1929)には、妊娠中の妻松子を捨て、こともあろうに松子の末の妹と男女の関係になり駆け落ちまでしている。であるから、この手紙を受け取った段階で、松子と清太郎の夫婦関係は崩壊していたと考えられる。昭和5年(1930)、谷崎は千代と離婚、佐藤春夫に譲る形となる。この際の離婚および千代と佐藤の再嫁の旨の挨拶状が有名になり、細君譲渡事件として世を騒がせた。上の手紙はその年のもので、離婚成立の後のものである。

翌昭和6年、谷崎は古川丁未子とみこと結婚する。丁未子は昭和4年、それまでの谷崎の秘書が結婚するということで、その後任選びに応募した。が、その時には秘書には選ばれず、翌年8月文芸春秋社に入り、「婦人サロン」の記者を務めた。その年、12月に上京して来た谷崎と会い、さらには昭和6年1月に再度上京してきた谷崎からプロポーズをされる。二人で鳥取の丁未子の両親を訪ね、結婚の許しを得て同棲に入る。4月、二人は正式に挙式を済ました(という約束だったが、後に離婚する際入籍していなかったことが判明する)。どうやら松子さんは適当なお相手を見つけてくれはしなかったらしい。

ただし・・・丁未子酸とはあんまり相性が良くなかったせいかわずか2年ほどで別れ、その翌年には憧れの松子さんと同棲をはじめ、昭和10年(1935)8年越しの恋愛を実らせ結婚と相成る。そして・・・

・・・いや、もうここまでにしておこう。谷崎の女性関係についての論考など専門の方々の極めて詳細で信頼できるものがあろうから、ここで私のような者の文章を読まずとも多くの方々の既知に属することであろう。そのことを充分に理解して、あえて感想を述べさせても貰えば・・・松子に一目ぼれして以来のこの8年、谷崎は別の女性と夫婦であり続けた。しかも千代と別れた直後には、恋い慕う松子に、いくら向こうが夫のある身であったからとはいえ、自らの妻の斡旋を依頼するなんて、常人の感覚ではちょいと計りかねる。常人ならざる大文豪ならではの振る舞いなのか・・・

・・・とまあ、3人の手紙をここで紹介した。皆さんはそこにどんな人物像を思い描かれたか・・・・?

他にも紹介したい手紙は幾つもあるが、余り長きに失してもいけない。そろそろ筆を置こう・・・いやキーボードを置こうと思う。この「手紙ー筆先に込めた想いー」と題された天理図書館の催しも、いよいよ明日(11・9)で終わる。まだの方、お急ぎ願いたい。なお、この時期行われる天理図書館のこの種の特別展は、通例であるならば翌年の春から初夏にかけて、東京は神田の天理ギャラリーにて再び催される。関東にお住まいの方はそれまでお待ちいただければ、名だたる人々のみずくきの後を見ることが出来るはずだ。

最後に、下に示すのは我が母校のHPのURLである。これをクリックすると、ちょいと小さいながら展示中のいくつかの映像を見ることが出来る。

 http://www.tenri-u.ac.jp/calendar/q3tncs00000lh2sj.html

※引用に当たっては慎重の上に慎重を記した。おそらく誤りはないかと思う。けれども、ご覧の通り幾箇所か今の私たちの目にはいささか不自然に映る部分がある。その点を明らかにするために、その部分の上に「ママ」などとしても良いのだが、どうしても字面が汚くなるため、そのままにしておいた。であるから・・・「?」と思われた表記であっても、まあ、こんなふうに当時は書かれていたのだな・・・ぐらいに思っていただきたい。