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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道・・・衾田陵から永久寺へ

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大鳥の羽がひの山」の山裾を山辺の道は更に北に延びる。中山の念仏寺を過ぎたあたりから、右手に巨大な前方後円墳の前方部が視野に入ってくる。、西殿塚古墳である。写真は更に足を進め後方部に回り込んでからのもの。その全長は234m、後円部の直径135m、前方部の幅118mで、きれいに南北に主軸が貫かれている。延喜式諸陵寮に

衾田墓手白香皇女 在大和国山辺郡 兆域東西二町南北二町 無守戸 令山辺道匂岡上陵戸兼守

とあり、その示す位置、規模がこの記述と一致するため宮内庁によって手白香皇女衾田陵に治定されている。

手白香皇女仁賢天皇の皇女。その弟の武烈天皇が子をなさずして崩御したため皇統が絶えてしまった(4代前の雄略天皇が、自らの地位を脅かす恐れのある皇子たちをことごとく粛清していた)ことから、応神天皇の5世の孫であるという越前の男大迹(おほど)王が皇位に着いた。そして手白香皇女がその皇后となったのである。

ここに万世一系の皇統に疑義をはさむ余地が一つある。応神天皇自体が学者によってはその存在の疑われる天皇であって、その存在の疑われるような天皇の5代も下った孫であるという事実をそのまま信じることは難しい。加えて、この天皇は若狭から大和の地に入る際に多くの抵抗に遭い、大和において即位することができずに河内にて即位している。やっと大和に入ったのが即位の20年後であったというから、この男大迹王を正当な皇位継承者として認めなかった勢力が大和の地に多くいたのであろう。そもそも「継」体をいう諡号を後に送られたこと自体、前の王朝との血脈的なつながりを持たなかったと、後世の人々も考えていた証になることを示しているのではないかと思う。だからこそ、その皇位の正当性を高めるために前天皇の皇女、手白香をその皇后としたのではないか・・・

ところで・・・その皇統史を語るうえで非常に重要な位置を占める皇女の陵墓と宮内庁によって治定されている西殿塚古墳であるが、実はこの古墳手白香皇女の陵墓とすることに疑いがもたれている。手白香皇女は5世紀後半から6世紀にかけての人物であるが、近年の調査の成果はこの古墳の築造年代が3世紀から4世紀であること示している。どう考えても時代が合わないのだ。そこで最近はこの皇女の墓はその近くにある西山塚古墳ではないかとする考えが一般的になりつつある。

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この西山塚古墳から出土された埴輪が、その夫継体天皇の真陵と言われる今城塚古墳と同じく、高槻のの新池遺跡で焼かれていることもその考えを補強する。

とはいえ、宮内庁が従来の見解を変えようとはしない。従って西殿塚古墳に発掘調査を加えることはいまだ許されてはいない。

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更に北上を続けよう。こんもりとした照葉樹の木立が見えてくる。夜都岐神社だ。夜都岐の字は「ヤツギ」とも「ヤトギ」とも読むが、いずれが確かであるか定かではない。祭神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)・ 姫大神(ひめおほかみ)経津主命(ふつぬしのかみ)・ 天児屋根命(あめのこやねのみこと)の4神、春日大社と同一である。それもそのはずで、この神社の位置する乙木(おとぎ)の地は、かつて興福寺大乗院及び春日大社の領地で、その縁があって春日の神をこの地に勧請したことがこの社の由緒であるからである。そのため、春日大社から古くなった社殿や鳥居を60年ごとに譲り受けるという伝統があった。下の写真の本殿は、明治39年改築したもので春日造りで、彩色の華麗な同形の4社殿が並列している。

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塀に囲まれたこの本殿はご覧のように、その一部しか拝見できなかったが、見えている部分だけでもその豪華さはうかがい知ることができる。

夜都岐神社から内山永久寺跡までは20分ほど・・・あるいは30分かかるだろうか。内山永久寺は永久年間(1113~1118)、鳥羽天皇の勅願によって建立された真言宗の寺院で、境内の3方を山に囲まれていたことから内山と呼ばれていた。当初、興福寺大乗院の手厚い保護を受け、その寺勢には並々ならぬものがあった。最盛期には浄土式回遊庭園を中心に、50あまりの堂塔が立ち並び、江戸時代には971石の寺領を誇っていたという。大和国内にあっては、東大寺興福寺法隆寺に次ぐ待遇をうける大寺であって、その伽藍の規模と壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも称されていた。

・・・が、今は・・・往時を偲ぶよすがは・・・

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その中心にあったと思われる浄土式回遊庭園の跡と思われる池とその中に浮かぶ小島のみである。

全ては明治初めの廃仏毀釈の影響である。すべては破壊され、略奪され・・・「西の日光」はこの国から消滅した。廃仏毀釈は、江戸時代に寺院が持っていたさまざまな特権や、寺請制度によって江戸幕府が行った民衆管理などに対する民衆の反発であったとも、神道を国家宗教に据えようとする明治政府の意図に従って、一部の国学者神職にある者たちによって主導された神道復権運動であったとも言われているが、どちらの要因も否定するべきものではないと思う。

明治政府がそれまでの神仏習合から、仏教的な要素を徹底的に取り除こうとする思想純化のための神仏分離令に端を発する運動が廃仏毀釈であったが、そしてそこには激しい破壊と略奪が伴ったことは周知の事実である。なんでも、興福寺五重塔などは薪として、金25円也で売りに出されかけていたのだという。

・・・・・・こんな事がわが国でもあったのである。この国の民衆も行っていたのである。一度タガが外れれば、どの道に進むか分からない・・・そんなところがこの国の民衆(もちろん私も含めて)にもあることを忘れてはならない。決して他人事ではないのだ。

・・・我々はくれぐれも自省しなければならない。