大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

我が心 焼くも我なり

さし焼かむ 小屋の醜屋(しこや)に  かき棄てむ 破れ(こも)敷きて うち折らむ (しこ)の醜手  さし()へて ()らむ君ゆゑ あかねさす 昼はしみらに ぬばたまの 夜はすがらに この床の ひしと鳴るまで 嘆きつるかも 焼き捨ててしまいたいような汚らしいあの小屋で、捨て去ってやりやいようなボロボロの敷物を敷いて、へし折ってやりたいような汚らしいその手と手を交わして眠っている、そんなあなただって言うのに昼は一日中、夜は夜通し、この寝床がみしみしと鳴るほど恋い慕い嘆いているこの私なのです。

万葉集巻十三・3270)

108880557_orgそれにしても、まあ、なんともおそろしげな歌である。自分の愛する男は今、違う女のもとにいる。「さし焼かむ 小屋の醜屋」とはその女の家のことである。本当に汚らしい小屋なのかどうかが問題なのではない。初句の「さし焼かむ」にその思いの中心はある。「~む」は通常、推量・意思を示す助動詞だが、ここにこめられた作者の思いはそんな生やさしいものではない。そうすることを強く願っているのだ。願望とまでいって良いほどの意思をここに読み取るべきであろう。以下、「かき棄てむ 破れ薦敷きて うち折らむ 醜の醜手を」も同様である。本当にボロボロの敷物だったのか・汚らしい手だったのか、そんなことはどうでも良いのである。作者にとって、どんな素晴らしい敷物であっても、どんなに美しい女の腕であっても、それは捨て去ってやりたい、そしてへし折ってやりたい、ボロボロで汚らしい敷物であり、腕であったのだ。

男が同時に複数の女と情けを交わすことが不徳ではなかったこの時代にあっても、男を待つ女の感情は今とは変わらない。今、この夜、自分から愛する男を奪いさった女に対して、どうにも抑えようのないような感情がわき上がる。どうにもならない感情は、自分を裏切り他の女の元へと向かった男が対象とならない。あくまで、その男を奪った女に対しての感情である。しかしながらどのように嫉妬の炎が燃えさかろうとも、この女は、実際に相手の女の元に行き、歌にあるような行動を起こすわけではない。全ては願望である。

嫉妬は愛情の一つの表象でもある。「古事記」では嫉妬深い女性として知られる仁徳天皇の皇后磐姫が、やはり夫仁徳に対し深い愛情を持っていたことは万葉集に残された彼女の歌からも読み取れる。

磐姫(いはのひめ)皇后思天皇御作歌四首 君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ

万葉集巻二・85~88

皇后は恐らくは他の女の元にいるであろう夫、仁徳天皇を強く思う。そして・・・女は、こうやって恋に思い悩むぐらいであったならば死んだ方がましだとさえ思うまで感情を高ぶらせる。けれどもその思いもやがて鎮まり・・・

事情は先の長歌も同じである。休むことなく女は男を想い続ける。そして、その想いは次第に募り、女は居たたまれなくなる。地団駄を踏んだりもしたのだろうか・・・その床はミシミシと音を立てんばかりなのである。しかしながら、その思いは言葉通りに実行できるものではない。一時の感情にまかせて吐き出した言葉は、気持ちが鎮静するにつれて、その思いは相手の女から自分自身へと向けられるようになる。今度は自省的な感情が彼女を支配するようになる。

そして、歌う。

我が心 焼くも我なり はしきやし 君に恋ふるも 我が心から わたしの心をかくまでも焼いているのは私自身の心・・・そして、愛おしいあなたをここまで恋い慕うのも私の心なのです。

万葉集巻十三・3271

説明するまでもないほどに、素直な歌だ。「はしきやし」は形容詞「()し」の連体形+間投助詞「やし」で、愛惜や追慕の気持ちをこめて感動詞的に用いられる。「ああ・・愛おしい」の意。「愛おしい」からこそ彼女は「心を焼く」のだ。その炎の源は・・・その男への恋情に他ならない。そして、その思いは一つの局所にたどり着く。その恋情すら自分の心に由来するものなのだと。

万葉集では、後世ならば「・・・を恋ふ」というところを「・・・に恋ふ」と表現することが多い。一見、大した違いは見受けられないが、この「・・・を」と「・・・に」の違いは大きい。「・・・を」という時、その「恋ふ」主体は自らの意思でもって「恋ふ」ているのであって、主体的な心情の有り様がそこには見られる。主体的な感情である以上、それは自分自身で制御できるものだ。ところが、「・・・に」となると事情は異なってくる。ここでこの「に」は原因・理由を示す言葉であるが、その事に力点をおいて理解するならば、「恋ふ」と言う感情が生じるのは、「・・・」が原因・理由になってのことなので、その主体となる人物は、受動的にその感情を持たされることになる。自分自身の意思で恋い慕うわけではない。ゆえに、その感情を制御することは、自分では不可能なことになる。恋とは自分自身では制御不能なものなのだ。

今から、千数百年前の名も無き女はその事がよく分かっていた。本当ならば、自分のことをほおっておいて他の女にうつつを抜かすような男は棄てておけばいいのだ。「あんな男、いつでもくれてやる・・・」と言い放って忘れ去ってしまうのが心の安定にはもっとも良いのだ。けれども、そうは簡単にいかないのが「恋」であることは今の世も変わらない。いきおい、そのやりきれぬ感情は、男を奪った相手の女に向けられた。それが件の長歌である。そして、その空しさをよく知っている女の思いは自然に自分に向けられ、諦めともつかぬこの短歌となったのだ。