大和逍遥   

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法隆寺に行く・・・6

西院伽藍の出口はその東南の隅にある。五重塔、金堂、大講堂といったこの寺の草創期(正確には七世紀末の再建のもの)の建造物の優美な姿に満足した私は、西院伽藍を後にして東院伽藍へと向かった。

・・・いや、その前に立ち寄らなければならないところが二つ・・・

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聖霊院(ショウリョウイン)だ。本来はこの法隆寺の僧たちの生活の場であった東室(ヒガシムロ)の南の端を改築したものだ。東室は基本的には奈良時代の建物ではあるが、以降の時代にかなりの手が入っている。この聖霊院と呼ばれている部分も鎌倉時代の改築によるものだ。

鎌倉時代の聖徳太子信仰の盛り上がりとともに、1221年、東室の一部を改築し、聖霊院とし、聖徳太子像を祀ったのがその始まりである。現在の聖霊院は1284年に改築されたもので、聖徳太子、そしてその眷属像や、如意輪観音半跏像、地蔵菩薩立像を安置を安置している。

太子とその眷属はいつもは厨子の中に安置されていて、普段はお会いすることはできない。この日も事情は同じ。私はその厨子の前に座った時もその厨子の扉は固く閉ざされたまま・・・私は右の手と左を合わせ、目をつぶり祈りをささげた。

もちろん、聖徳太子にである。近年、その実在が疑われもしている聖徳太子ではあるが、それはあくまでも歴史上の人物としてのそれであって、信仰の対象としてのそれではない。両の手を合わせ祈りを捧げようとするとき、聖徳太子は確かに実在したとしか言いようがない。

さて、その聖霊堂の東に隣接するのは観音堂・・・・ここも見逃すことのできない場所だ。

観音堂はその東西に宝蔵を併設し、夢違観音像・玉虫厨子・橘夫人厨子をはじめとしたこの寺の御仏や宝物が陳列されている。ここだけで、国宝と呼ばれているものの数パーセントを目にすることができるのではないか(少々大げさに過ぎるが・・・)と思えるほどだ。それぞれを列挙しようにも、少々億劫になってしまう。

しかし、そんな中でも二つの宝蔵に挟まれた観音堂だけは、たったお一人の御仏が静かにお立ちになっているだけである。その御仏は百済観音という名で現在呼ばれている。その細身の長身の御仏はかなりの広さをもったこの観音堂の空間を独り占めにして、静かに微笑んでいるだけなのである。

明治の御代までは虚空蔵菩薩と呼ばれていたという、この御仏のお姿の美しさを伝えるのは私の手には及ばない。ここは少々悔しくもあるが、哲学者であり、倫理学者でもある和辻哲郎の筆を借りるしかない。

・・・抽象的な「天」が、具象的な「仏」に変化する。その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである。人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、――それを嬰児(えいじ)のごとく新鮮な感動によって迎えた過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。・・・<中略>・・・あの円い清らかな腕や、楚々として濁りのない滑らかな胸の美しさは、人体の美に慣れた心の所産ではなく、初めて人体に底知れぬ美しさを見いだした驚きの心の所産である。あのかすかに微笑を帯びた、なつかしく優しい、けれども憧憬の結晶のようにほのかな、どことなく気味悪さをさえ伴った顔の表情は、慈悲ということのほかに何事も考えられなくなったういういしい心の、病理的と言っていいほどに烈しい偏執を度外しては考えられない。このことは特に横からながめた時に強く感ぜられる。面長(おもなが)な柔らかい横顔にも、薄い体の奇妙なうねり方にも。・・・(古寺巡礼)