大和逍遥   

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法隆寺に行く・・・7

百済観音の御前の静謐な空気を味わった後は東院伽藍へと向かおう。西院伽藍の前からまっすぐに東に延びた参道をゆっくりと歩む。左右には古びた土壁が続いていて、そこから発せられているであろうひなびた香りが、この道を歩くものに今が21世紀であることを疑わせてしまう。わずかにその道ばたに営まれている露店の土産物屋が「現代」を感じさせるのみである。

歩くこと5分。東院伽藍が目の前に静かに迫ってくる。

この東院伽藍は天平十一年(739)に行信僧都聖徳太子の遺徳を偲んで、その一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された伽藍であり、回廊で囲まれたその中央にはこの伽藍の中心的な堂宇である夢殿が建っている。

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夢殿は奈良時代に建立された八角円堂であり、その中央に位置する厨子には聖徳太子のお姿を写したと言われる救世観音像が安置されている。この飛鳥時代秘仏中の秘仏は長年白布に包まれた状態で安置されており、明治時代、岡倉天心フェノロサが初めてその白布をとるまでは、この寺の高僧さえそのお姿を拝見することができずにいた。かくのごとき秘仏ゆえ、春・秋の極めてて限定的な期間の厨子の開扉の間しかそのお姿を拝することができないのだが、そのこともあって保存状態はよく、建立当時の金箔も比較的よく残っている。

私がこの寺を訪れた日は運良くこの開扉期間であったので、その尊いお姿に向かい手を合わす幸運に恵まれた。暗い堂内に鈍く輝く白鳳の黄金仏は、何も語らずそこに佇んでいらっしゃるだけであったが、その発する得も言われぬ神秘的なオーラは、その前に立つ者をして自然に敬虔な心持ちにさせてしまう。

この御仏は今から百年ほど前、日本の、そして西洋の美術家によってはからずも千二百年以上の長い眠りから目覚めた。そして、この聖徳太子のお姿に似た御仏は、以降のこの国の激動を目のあたりにすることになった。数度にわたるこの国をも巻き込んだ殺し合い、そしてこの国を幾度か襲い、人々を苦しめた災い・・・とりわけ、このたびの東の国における災害を、いったいどう思っていらっしゃるか、私は密かに御仏・・・いや聖徳太子にお聞きしてみたが、私の目の前で太子は謎めいた微笑みを浮かべているのみであった。

それはお前たちが自ら答えを出すべきことなのだ・・・

さて、この夢殿にいらっしゃるのはこの救世観音だけではない。その周囲には平安仏の聖観音、この東院の建立に尽力なさった行信僧都の乾漆像(奈良時代平安時代に夢殿の修理に尽力なされた道詮律師の塑像(平安時代)が配されており、救世観音の放つ神秘性をいっそう高めている。

さてこの夢殿の北面に位置するのが拝堂。この拝堂に座り夢殿を拝すれば、必然的に救世観音に正面から向かうことになる。

北に位置するのは絵殿及び舎利殿で、鎌倉時代の建立のもの。絵殿には、摂津の絵師である秦致貞(ハタノムネサダ)が延久元年(1069)に描いた「聖徳太子絵伝」の障子絵が飾られていたが、現在は東京国立博物館の所蔵となっており、現在は江戸時代に描かれた「聖徳太子絵伝」が代わりに飾られている。

絵殿・舎利殿に北接する形で立っているのが伝法堂である。県犬養橘三千代藤原不比等夫人、光明皇后母)の住居を移設したものとこの寺の伝承では伝えられているが、現在では聖武天皇夫人・橘古奈可智のものとする説が有力である。奈良時代の住宅遺構としても貴重である。多数の御仏が起居していらっしゃるのだが普段は公開されていない。最後に今日はその天平の優雅な姿のみを楽しんで東院伽藍を後にする。

大和には多くの古い寺院が存在する。1000年の歴史を持つものざらである。しかしながらこの法隆寺ほど清浄な空気に包まれている場所を私は知らない。東大寺の持つ豪壮はここにはない。薬師寺の持つ絢爛はやはりない。あえてこの清浄さを比するとすれば・・・唐招提寺か・・・けれども、この寺の空気ほど透き通ってはいない。無論これは私だけの勝手な感覚であろう。けれどもこれはどうにも否定しきれない思いなのだ。

そして私は法隆寺を後にする。そんなに遠くないある日・・・またこの場所にやってくることを思って・・・