大和逍遥   

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今週の三輪山・・・磐余池推定地より

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2015年3月21日

午前9時香具山とその南に続く丘陵の谷間のあたりから撮った。すっかり霞んでいて、三輪山の稜線も定かではない。

春霞 いよよ濃くなる真昼間に 何も見えねば 大和と思へ

大和出身の歌人、前川佐美雄の1首である。「何も見えねば 大和と思へ」とはなんとも極端な物言いではあるが、ここ数日先週は暖かい日が続き、ちょいと離れてしまうとこんな感じで三輪山が霞んでしまう日がほとんどであった。

手前に広がる一帯はかつて磐余と呼ばれていた地域。

初代神武天皇の和風諡号神日本磐余彦(かむやまといはれひこ)天皇にその名が残るとともに、「磐余椎桜(いはれわかざくら)宮」(応神天皇の即位の地、履中天皇のを宮都)、清寧天皇の「磐余甕栗(いはれみかぐり)宮」、継体天皇の「磐余玉穂宮」、用明天皇の「磐余池辺双槻(いはれいけべのなみつき)宮」など多くの宮都が営まれた。磐余は本高市郡磯城郡南部に広被したる地名なり、然れども耳成川の辺即十市郡を中心となし其四近に及ぼせる者に似たり、故に磐余川磐余池は今安倍村に在り。古書に石村に作るも同じ岩村の略と云ふ。

とは大日本地名辞書の言である。その中で「磐余川磐余池は今安倍村に在り。」とあるが、近年の発掘の成果により、この記述は改める必要が生じたように思われる。写真からは分かりづらいが、手前を斜めに横切る道にはささやかな流れが並行して走っている。今この写真を撮っている私の数百m北東の辺りから、そのその流れをせき止めるかのような大規模な堤跡かと思われる遺構が発見されたのだ。

http://soramitu.net/zakki/archives/1133

磐余の池は日本書紀履中天皇2年の条に

冬十月、都於磐余・・・十一月、作磐余池。

とあり、翌3年の条には

十一月丙寅朔辛未、天皇、泛兩枝船于磐余市磯池、與皇妃各分乘而遊宴。

とあって、その存在は知られていたが、その所在については確定されておらず、大日本地名辞書の説くところもそんな諸説の一つであった。しかしながら2011年12月の堤跡の発見は、それらの論争に一定のけりをつけたと言ってよい。

無論、異説はある。が、仮にこの発見による推定が正しいとしてみよう。すると・・・今、私が立っている場所は・・・かつての池の底と言うことになる。