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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

春日大社に行く・・・下

さていよいよ私は、本来非公開である春日大社本殿前へと向かう。普段ならば南門から入り幣殿・舞殿の前に出て、そこから祈りを捧げるのだが、今日は違う。南門は潜らずにその手前で西に方向を変え、ぐるりと南廻廊から西廻廊へと回る。

以下の記述はある程度、春日大社に社殿の配置が理解できていないとわかりにくい。春日大社ホームページの示すところの境内案内を参照にしつつお読みいただければ幸いである。

P1060891edited既に修繕の住んだ美しい南廻廊を右に折れればそこは西廻廊。少し行った先の慶賀門より廻廊内に入る。ここで特別拝観の受付。金1000円也の特別拝観料をお渡しすると、拝観記念の品として清めの御香をいただく。春日大社はお浄めに御香を用いる珍しい神社なのだそうである。そして最初に目に入るのは一本の青竹。目にも鮮やかな青竹が横に一本しつらえられてあり、その幹から行く筋もの清らかな水が流れ落ちている。ここで俗塵の穢れをきれいさっぱりと洗い流せということなのだろう。私は作法通りの所作を済ませ、直会殿と西廻廊の間を抜けて、直会殿の北から林檎の庭に出る。

大杉をぐるっと回って最初に入る社殿が御仮殿(移殿)。通常は内侍殿とも称しているのだが、現在は四柱の神々が遷り住まわれているため、このように呼ばれている。かくも神威あらたかなる四柱の神々が御静まりになるにはあまりに狭すぎる社殿ではあるが、なにせ本宅はこれから改修に入る。しかも春日大社の神庭の広さを考えてもそう広い場所はとれない。これはまた仕方のないことなのであろう。春日大社が作られて以来もうすでに59回位の式年造替が繰り返されている。神様たちももうお慣れになっているであろう。

我々人間からすれば、普段は幣殿・舞殿越しにしか(あるいは中門越しにしか)参拝できないこの四柱の神々にこんなに近くから祈りを捧げることが出来るのだから、こんなに有難いことはない。そしてそれにふさわしいだけの祈らねばならぬことが今の私にはある。こんな機会は逃してはいけない・・・

柄にもなく真剣な祈念を済ませた後は140年ぶりの公開だという後殿に向かう。ちょうど本殿の裏庭に当たる場所だ。普段はこれまた直接拝することあたわぬ5つの社殿が立ち並ぶ。佐軍神社・杉本神社・海本神社・栗柄神社・八雷神社である。これまた一つ一つの御社に丁寧に祈りを捧げる。

そして、ここで特筆するべきは今回初公開となる磐座だ。4社立ち並ぶ本殿の第一殿と第二殿の間に、限りなく聖なるそれは、地中からひょっこりと顔を出している。目にも清らかな玉砂利が敷き詰められた地面に漆喰に塗り固められたそれはごつごつとした姿を我々に見せてくれている。大和に居を為しているとこの磐座の類はあちらこちらで目にするのだが、かように真っ白に塗り固められた磐座を見るのは初めてである。四方1mにも及ばぬ小ぢんまりとしたものではあるが、それは地表に姿を見せている部分のみ。おそらくはその地中での広がりは尋常ならざるものであろうと想像させるに足る神威がそこには満ち満ちていた。その限りない地中の広がりより、神山御笠山の霊威を吸収し、このわずかに地表にせり出した部分よりその霊威を発しているに違いない。あるいはこの磐座が漆喰で塗り固められているのは、その保護が目的なのではなく、あふれ出る霊威を制御せんが為のことなのではないかと疑ってしまうほどである。

さて・・・いよいよ本殿の前へと回り、その御姿を拝することになる。普段はごく限られた神官のみがその御姿を拝しているこの本殿の姿は・・・美しい・・・実に言葉にならぬほどの気品が漂っている。まだ修繕前のこの四つの社殿ではあるが、この美しさはどうだろう・・・今ここに神は御鎮まりになってはいないというのに、思わず手を合わせてしまった。

そして・・・それから私はしばしの間、この国の伝統の作りなす美の一つの形にうたれていた。

ところで今回の特別拝観の目玉はここまでにとどまらない。これまた通常は絶対禁足の御笠山浮雲峰遥拝所である。私は本殿を後に中門から御廊の外に出る。中門と本殿の間には御廊にそって細い溝のような流れがある。おそらくそれは、この神社のもっとも聖なる部分とそうでない部分を画する境界であり、その外より神前へと出る神官たちがここを跨ぐことにより自ずと身を浄める・・・そんな仕組みのものなのだろう。

中門より御廊の外に出た私は、御廊にそって東に向かう。程なく突き当たる門が影向門である。影向門の外はすぐに御笠山の斜面となっており、ほんのわずかな平地のみがある。いつもは遠く仰ぎ見る御笠山の山肌が今私の眼前にあるのだ。私は同じく大和の神山三輪山の麓に起居し、大神神社を訪れてはいるが、この場所に漂う気は大神神社のそれとは全く趣を異とする。大神神社、そして三輪山が漂わすそれは一切の俗塵の穢れを受け付けぬ限りのない清浄であるとすれば、御笠山のそれはなにかしら混沌とした太古の息吹を感じさせる・・・そんな質のものであった。

人が神としてその山を拝するようになった歴史からいえば、三輪山の方がはるかに古い。しかし・・・そこから我々が感じる印象は全くその逆である。あるいは三輪山の山肌に聳える整然とした杉林に対し、ここの木々は好き勝手に思い思いに枝をのばし立ち並んでいることに由来するのかもしれない。

そんな場所の一画に浮雲峰遥拝所はある。4本の白木の柱に屋根をかぶせただけの、実に楚々とした社殿である。きらびやかに朱で塗り飾られ、豪華に飾られた廻廊内の社殿に比べ、質素すぎるほど質素な社殿である。

けれども・・・この場所には、そんな豪華さはなじまない。この質素さのみがあたりに漂う太古の気に対抗し得るものなのだ・・・