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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

今週の三輪山・・・金屋集落の外れより

2015年4月24日8時50分

[caption id="attachment_6448" align="alignnone" width="632"]Hisilicon K3 Hisilicon K3[/caption]

場所は、第十代崇神天皇の都磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)跡と推定されている志貴御県坐(しきのみあがたにいます)神社のやや南方、金屋の集落の西の外れ。写真中央にわずかにその頂が見えている。一見きれいな紡錘形に見える三輪山も実はその南斜面にはもう一つの頂が有り、南の麓の極めて近い部分から見るとこのようにその南峰の奥に本峰の頂が奥まって見える。

そういえば第21代雄略天皇の都泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)もここより東方の脇本遺跡と推定されており、同じように手前の南峰の頂の奥に本峰の頂が見える。

確かに大和盆地から見える三輪山の紡錘形は美しいが、このように奥まって見える三輪山の姿も悪くない。

さて、最後に志貴御県坐神社について、以前書いた一文を載せておく。

続いて足を運ぶべきは志貴御県坐神社であろう。祭神天津饒速日命(あまつにぎはやひのみこと)神武天皇よりも早くに大和に降臨していた神として有名で、物部氏の始祖である。山辺の道の入り際にこの神を祀る神社があり、そしてその北の果てに物部氏が祀るところの石上神宮があること・・・加えて、この場所、第10代の崇神天皇の磯城瑞籬(シキミヅカキノ)宮の跡地として伝えられている場所でもあり、天皇家物部氏との関係を考える上でも上記の事実はおろそかに考えることは出来ないことだと思う。崇神天皇は実在した最初の天皇であることつとに知られているが、このことと大和政権の樹立がいかに関わっているかを説明することは私には任が重すぎる。ただ、この天皇がその位につくにあたって物部の民・・・饒速日の末裔達の力が多いに関与していたことを想像させる材料となることはこの山辺の道が証明してくれているのではなかろうか。(山辺の道)  

急にこんな引用をしたのにはそんなに大した理由があるわけではない。ただ、今朝こんなニュースに触れたからである。

未知の巨大石室古墳 - 物部氏の有力者墓?/天理の丘陵地