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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道1日旅行・・・2

万葉集 大和のこと

 

興福寺の南大門の横のところで三条通りに出て、春日大社へと東に向かう。総勢80名強の一行の列は歩道沿いに長く続く。私は途中ちょいと列から外れ、道の右手にある菩提院の大御堂の前へと寄り道をする。中に入ることは出来ないから、その門前から内部をぱちりと・・・

P1060931

そしてその門前には、「伝説三作石子詰之旧跡」と書かれた碑が立っている。この「三作石子詰」の伝説については、以前このブログが別の場所で営まれていたときに一度書いたことがあるが、すでにその一文が消去されているゆえ、碑に書かれた説明を以下に示し確認だけしておこう。

 本院はふつう、奈良時代の高僧玄昉僧正(?~746)の創建と伝えられるが、実際はむしろ、玄昉の菩提を弔う一院として造営されたものであろう。本尊は阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、重要文化財)で、別に児観音立像が安置される。鐘楼に掛かる梵鐘は永享八年(1436)の鋳造で、かつて昼夜十二時(一時は今の二時間)に加えて、早朝勤行時(明けの七ッと六ッの間)にも打鐘されたところから、当院は「十三鐘」の通称でも親しまれている。なお、大御堂前庭には、春日神鹿をあやまって殺傷した少年三作を石子詰の刑に処したと伝承される塚がある。元禄時代、近松門左衛門がこの伝説に取材して浄瑠璃「十三鐘」を草したことは有名である。

法相宗大本山 興福寺

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この話について私は大和に居を定めるかなり以前から知っていた。ご記憶の方も多いかと思うが、小学校の頃愛読していた少年マガジンだったか少年サンデーだったかの冒頭部には毎週さまざまな特集が組まれていた。そんな記事に中に日本の残酷刑についての特集があって、その中で紹介されていたのがこの伝説だったのだ。「俚言集覧」に

小石にて人を生きながら埋める刑なり、中古辺土にて往々ありし事なり

とあるが、他に

日本の中世、近世の刑罰、私刑のひとつ。地面に穴を掘り、首から上だけ地上に出るように、人を生きたまま入れ、その周囲に多くの小石を入れ、圧殺したもの。

Wikipedia

という説明もある。いずれにしても残酷極まりない刑罰であることには違いがない。私がもう40年以上も前に読んだ漫画雑誌の特集記事の内容を記憶していたのも、そのあまりの恐ろしさゆえのこと。確か・・・拙い記憶によれば、その挿絵には俚言集覧に示された処刑のありようが描いてあったような気がする。

奈良では鹿は春日の神の使いとして、古来大切にされていた。時は徳川5代将軍綱吉の頃、三条通りの南にあった菩提院大御堂の傍らに寺子屋があって、2,30人の子供が読み書きを学んでいた。その中の一人が三作であった。ある日三作が習字をしていると、一頭の鹿がやってきて廊下に置いてあった草子をくわえていこうとした。三作は追い払おうとして手元の文鎮を投げつけたところ、それが鹿に当たり、打ち所が悪かったのか鹿は倒れて死んでしまった。春日大社の神の使いである鹿を殺せば、石子詰というのが当時のならい。三作は大御堂の前の東側の庭に鹿と一緒に埋められてしまった・・・と言うのが三作石子詰の話の大筋。さらに参考までに上引用にあった浄瑠璃の一節を引用してみよう。

昨日は今日の一昔、憂き物語と奈良の里、この世を早く猿沢の、水の泡とや消え果ててゆく、後に残りしその親の身は、逆様なりし手向山、紅葉踏み分け小牡鹿の帰ろ鳴けど帰らぬは 死出の山路に迷ひ子の、敵は鹿の巻筆にヨ、せめて回向を受けよかし。 サェ頃は、弥生の末っ方、よしなき鹿を過ちて、所の法に行はれヨ、蕾を散らす仇嵐。 サェ野辺の、草葉に置く白露の、もろき命ぞはかなけれ、父は身も世もあられうものか。せめて我が子の菩提のためと、子ゆゑの闇にかき曇る、心は真如の撞鐘を、一つ撞いては、独り涙の雨やさめ、二つ撞いては、再び我が子を、三っ見たやと、四っ夜毎に、泣き明かす、五っ命を、代へてやりたや、六っ報いは、何の鋲めぞ、七っ涙に・八つ九つ、心も乱れ、問ふも語るも、恋し懐し、我が子の年は、十一十二十三鐘の、鐘の響きを聞く人毎に、可愛い、可愛い、可愛いと共泣きに、泣くは冥土の鳥かえ。

上にも示したように十三鐘とは、奈艮で六つと七つとの問に突かれていた鍾のこと。三作が十三歳であったので、十三鐘が突かれる時刻に処刑されたという。ちなみにその時掘られた穴の深さも一丈三尺だったそうな・・・。上の地唄はその鐘を聞く母親の嘆きを歌ったものであるという。

昔から奈良町の人々は早起きであるといわれている・・・その理由は、もし万が一、春日の神鹿が家の前で死んでいた場合、その家の主が責任を問われるので奈良町の人々はよその家よりも早く起き、神鹿の死骸がないかどうかを確認していたのだという。そしてもし死骸があれば、こっそりと隣の家の前にその死骸を運んでいたそうな・・・

なんて言うのは、もちろん言い伝えに過ぎない。そして三作石子詰の話も伝説に過ぎないことを最後に申し添えておく。