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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道1日旅行・・・4

飛火野は、春日大社一の鳥居の南に広がる一帯の芝地。きれいに刈られた芝はもちろん人間の仕業ではなく、鹿さんたちの日々の精進の賜物である。

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飛火野は現在、一般に「とびひの」と呼ばれているが、古くは「とぶひの」と呼ばれていた。地名の由来は続日本紀

河内の国の高安の(とぶひ)()め、始めて高見の烽と倭国(やまとのくに)春日の烽を置きて、平城(なら)に通ぜしむ

和銅五年正月二十三日

とあるなかの「春日の烽」とあるのによるのだという。

烽は、663年の白村江において大敗北の後、戦勝の勢いをかって唐や新羅が我が国に侵攻することを怖れた我が国の指導者が、九州北辺の変事を都に急報するために設けさせた設備。山上などに20㎞おきに置かれ、変事があった時には草や薪を燃して、昼は煙、夜は火によって隣接の烽に順次伝えたという。ちなみに烽という語は基本的には狼煙(のろし)のことで、この白村江以降に設けられたシステムのみを示す語ではないが、私などは烽と聞くと、ついついこの白村江の際の烽を想起してしまう。大陸においては狼の糞の乾いたものを用いたために狼煙なんて言う文字を使って居るが、我が国のそれは上に示すように草や薪など植物を用いていた。

万葉集にはこの飛火野を詠んだ歌は見えないが、古今和歌集には

春日野の 飛火(とぶひ)野守(のもり) 出でて見よ 今いく日ありて 若菜つみてむ

古今和歌集巻一・18

なんて詠まれている。

次にS先生のレクチャーは、傍らにあったあまり風流とは言えぬ水たまりに及んだ。

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「雪消(ゆきげ)の沢」という風流な名前が付けられたこの水たまりは大和志料あたりにも「名勝タリ」と書かれていたり、風雅和歌集・春歌上に崇徳院の作として

春来れば 雪消の沢に 袖たれて まだうらわかき 若菜をぞ摘む

巻一・17

と詠まれていたりして、古くからの名勝であったようだが・・・今この水たまりの姿を見るに、どうしてこれがそんなにも賞美されたのかが分からない。春日大社のホームページの説明によれば「雪が消える早春の摘草の名所」であったらしい。

さて、ここ飛火野において是非とも皆様にお示しいておきたいのが、この御蓋(みかさ)山と春日山の山容である。

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手前の円錐形が御蓋山。背後の左右に翼を広げたように聳えているのが春日山である。

さてこの写真と、下に示す写真をちょいとお比べ頂きたい。

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背後に龍王山、初瀬山を従え中央に聳える円錐形が三輪山である。明日香から見たこれらの山々は、かくの如く「いつぱいに翼をひろげて天翔つて來る大鳥の姿を(「大鳥の羽易山」大濱厳比古)」を見せている。相似と言っても良いほど、この二つの山並みの姿は似通っている。

御蓋山春日山

春日なる 羽がひの山ゆ 佐保の内へ 鳴き行くなるは 誰れ呼子

万葉集巻十・1827

と歌われているが、三輪山を中央に左右に龍王山、初瀬山と並ぶ山並みもまた

・・・昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽がひの山に 我が恋ふる 妹はいますと 人の言へば・・・

柿本人麻呂 万葉集巻二・213(全文はここ

と歌われている。

この「 大鳥の 羽がひの山」について古くは、1827番歌と同じく御蓋山春日山をさしているという理解が一般的であったが、近年は上記213番の長歌反歌

衾道を 引手の山に 妹を置きて 山道思ふに 生けるともなし

万葉集巻二・215

とあり、その「引手の山」が龍王山をさしていると考えられることから、この長歌における「大鳥の 羽がひの山」が三輪山を中心とした山容であると考えることが一般的になっている。

また「羽がひ」という語が鳥が羽を閉じたときのその合わせ目を示すことから、大鳥が羽を広げたようなこの山容を示すものではないとの考えもあるが、その点については以前怪しげな考察を試みたことがあるので、それを参考にしていただきたい。

とにもかくにも明日香にも平城の都にも「羽がひの山」が存したのである。

さまざまな事情によって都は明日香から平城の地へと遷された。しかしながら、それは決して万葉人の明日香との決別を意味しない。住むべき場所を平城の地に移した後も、彼等にとって明日香は忘れがたき「ふるさと」であったのだ。例えば

 登神岳山部宿祢赤人作歌一首并短歌 みもろの 神なび山に 五百枝さし しじに生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはづは騒く 見るごとに 音のみし泣かゆ いにしへ思へば 反歌 明日香河 川淀さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに

万葉集巻三・324/325

には「明日香の 古き都」の春秋を通じての美しい山川が描かれ、それを「見るごと」に「音のみし泣かゆ」と明日香に都のあった「いにしへ」に対する強い思い入れが歌われているし、

 上古麻呂歌一首 今日もかも 明日香の川の 夕さらず かはづ鳴く瀬の さやけくあるらむ

万葉集巻三・356

にも「今日」もついつい明日香のことを思ってしまうとの明日香への執着が・・やはり歌われている。

さらにもう2首。

 三年辛未大納言大伴卿在寧樂家思故郷歌二首 しましくも 行きて見てしか 神なびの 淵はあせにて 瀬にかなるらむ 指進の 栗栖くるすの小野の 萩の花 散らむ時にし 行きて手向けむ

万葉集巻六・369/370

大伴旅人の最後の作と言える2首であるが、ここで「在寧樂家思故郷(寧樂の家に在りて故郷を思ふ)歌」と題された2首に詠み込まれた地名はいずれも明日香のそれであった。「神なびの淵」は「飛鳥川」の淵。「指進乃の栗栖の小野」は「指進」の訓が定まらないものの、「栗栖の小野」は明日香の地名とされている。和名抄に・・・大和国忍海郡栗栖郷・・・とあるのにより現在の御所市にその地を求める考えもあるが、仮にそれが正しいとしてもそこは明日香から小高い丘を一つ越えただけの近隣地。若き日の旅人が馬にでも乗ってしばしば訪れた地とも考えることが出来る。そうなるとここもまた旅人にとっては明日香の範疇に入る地となる。

老齢にいたって太宰府におもむき、その地において糟糠の妻を失った旅人は、数年の後大和に帰ってきた・・・そして自らの人生の終焉を間近に迎え、胸中に思い浮かべたものは、青春期を過ごした明日香の地に他ならなかった。

ところで先ほど「ふるさと」と言う語を用いたが、万葉集全注巻4(木下正俊氏)によれば、この語の示す対象は

「故郷」の語は、歌・題詞・左注合わせて十五回見えるが、そのほとんどは平城遷都以後に既に古京となった飛鳥ないし藤原の地をさして言ったものである。

であり、例外として天平十五年ないし十六年の久迩京当時の歌が、旧都となった平城を「故郷」といった例がふたつのみである。

このように考えたとき、平城に居を遷した彼等がより身近に地に「ふるさと」を偲ぶよすがを求めたことは想像に難くない。そしてそれが「春日なる 羽がひの山」であったのだ。そして明日香から見た「羽がひの山」の中央に聳える三輪山がそうであったように「春日なる 羽がひの山」の中央に聳える御蓋山もまた聖なる山として崇めるようになった。

余談になるが三輪山にいます大物主大神は、かの大国主大神と同一神とされているが、御蓋山にいます神は武甕槌命タケミカツチノミコトである。お気づきの方も多いかとは思うが、このお二方、例の国譲りの際の因縁浅からぬお二人。そこに何か古代人の思惑があったかともついつい思ってしまうのだが、それを云々するだけの知見は私にはない。ただ・・・偶然にしては・・・とあらぬ想像をしながら楽しんでいるだけである。

最後に次の歌を紹介しておこう。

 大伴坂上郎女元興寺之里歌一首 ふるさとの 飛鳥はあれど あをによし 奈良の明日香を 見らくしよしも

万葉集巻二・992

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「奈良の明日香」とは聞き慣れぬ人も多かろうとは思うが、興福寺の南、猿沢の池のさらに南の一帯に奈良町と呼ばれる一帯がある。その真ん中に今はほんのささやかな寺になってしまったが、かつてはこの奈良町のほぼ全域を境内としていた元興寺がある。元興寺は、元々明日香の地に在った法興寺が平城遷都の際にこの地に遷ってきたものである。

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そしてその法興寺が飛鳥寺とも呼ばれていたことから、元興寺一帯も「飛鳥」と呼ばれるようになったという。

ただし上の歌では原文が「古郷之 飛鳥者雖有 青丹吉 平城之明日香乎 見樂思好裳」とあり、訳文の表記もそれに従ったため飛鳥と明日香が交錯して使われているが、地名としては現在皆さんがご存じなのが明日香、奈良のこの地は飛鳥と表記するのが一般的である。

話がちょいと言いたいことからそれ始めた。元に戻したいと思う。この大伴坂上郎女の歌は

古京の明日香は明日香としてよい所ではあるが、新京奈良の明日香、この里を見るのはさらにいっそう素晴らしい。

とでも訳することが出来るのであろうが、どうも「ふるさとの飛鳥」よりも「奈良の明日香」は「いっそう素晴らしい」というのは強がりのようにしか思えない節がある。というより、「ふるさと」を離れてしまった今はそう思わなければやって居られない・・・そんなやるせなさが伝わってくるような気がしてならない。上野誠氏は「万葉語「フルサト」の位相-大伴家関係歌を手がかりとして-」の中で、この歌について

おそらく、彼女の胸中には飛鳥に対する故郷追懐の情と、平城京生活者としての自覚・自負という、複雑な感情があったものと思われるが、こういった気持ちを整理しきったあとの感情の吐露であろう。察するに、それは「住めば、都」という気持ちの整理の仕方に近いものと考えられる。

奈良大学総合研究所報第4号 平成8年3月2日発行)

と述べているが、ここまでの私が述べ来たったことも、この御論文に導かれてのことである。

最後に繰り返す。

「さまざまな事情によって都は明日香から平城の地へと遷された。しかしながら、それは決して万葉人の明日香との決別を意味しない。住むべき場所を平城の地に移した後も、彼等にとって明日香は忘れがたき『ふるさと』であったのだ。」