大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

神は馳す藤原京

これは現在大和三山の一つ、天の香具山にある洛陽牡丹園の横に設置されている石碑である。

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洛陽牡丹園の由来は、橿原市にかつて位置していた藤原京が、長安や洛陽をモデルとして造営されたという説(「周礼」にある理想の都がその源流にあるとの説が近年唱えられ始めている)があることや、702年に再開された遣唐使藤原京を発し洛陽を訪問したなどの縁により、洛陽市から300株の牡丹が送られたことに始まる。橿原市と洛陽市は友好都市として現在もなお盛んに交流を行っているが、友好都市としての盟約の締結までの流れのあらましは以下の如し。

昭和58年5月 洛陽市長ほか訪問団が来橿。橿原市文化協会による洛陽市交流が活発に行われる 平成10年4月 洛陽市より牡丹300株が寄贈される。 平成11年5月 万葉の丘スポーツ広場に「洛陽牡丹園」を開園 平成13年12月 洛陽牡丹園横に劉市長の歌碑建立 平成18年2月 洛陽市と友好都市の盟約締結

上の年表はあくまでも「あらまし」であって、この2つの市の間にはもっと密な交流がある。去年も10月に洛陽市人民対外友好協会芸術家訪問団が来橿し、橿原市の市民との交流を深めたばかりである。

さて・・・話を上の写真に戻そう。この石碑は上にもあるとおり平成13年に当時の洛陽市長であった劉氏の詩を刻んだもので、上にあるように歌碑とするよりは詩碑とした方がより正確であろう。その詩に曰く

翹首望東瀛 神馳藤原京 香具洛陽○ 世代傳友情 首をげて東瀛とうえいを望めば こころは馳す藤原京 香具洛陽○ 世代友情を傳ふ

とでも訓ずればいいのだろうか。もっと正しい訓みがあるのならばお教えいただければ幸いである。

起句「翹首」は首を上げて、ひたすら待ち望むこと。待ち遠しく思うこと。「東瀛」は古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱•方丈・瀛州)の一つ、瀛州を意味し、転じて日本を指す雅称。現在でも漢民族は日本のことを東瀛ということもあるらしい。

承句「神」は「こころ(心)」と読めばいいのだろうか。転句「香具洛陽」は香具山と洛陽を意味し、結句「世代」はここでは「代々・・・末永く」ほどの意と理解できる。

IMG_20150321_091702~01いわゆる五言絶句であるが、どうにも転句の最後の文字が読めない。その部分を拡大すると左の写真のようになるが、あちらこちらを調べてみたり、いろいろな方のご助言を戴いて何とかたどり着いた答えが「乗」と言う文字。「乗」は漢和辞典などにてらしてみると、その名詞としての用法に

1 掛け算。乗法。「加減―除」 2 史書。歴史。 3 乗り物。

とある。このなかで2の「史書。歴史。」と言う意味は「語り継がれて来たこと」と理解できようが、たまたま手元にあった中日辞典にも、

(1)《動詞の前に置いて》(目上の人の好意的行動に敬意を表わして)…してくださる: [~念]気にかけてくださる. (2)近づきつつある,間近に迫る: [~老]老いが近づく. (3)語り継がれる,後世に伝わる: [永~不朽]永遠に語り継がれる.

とある。この内の(3)の意味を採用すれば「香具山と洛陽のその名は永遠に語り継がれる」というふうになって、なんとか意味が通じないこともない。

かくしてこの絶句を

首を高く上げて東の海の彼方日本を望み見れば、我が心は早や藤原京に馳せ行く 香具山と洛陽の名は永久に語り継がれ、橿原・洛陽両市の友情は何時の代までも続いて行くだろう

とでも理解すればいいのだろうか。これまたあまり自信はない。先ほどの結句「乗」の字の理解を含め皆さんお御教えを乞いたいところである。(打ち消しの詳細についてはhttp://soramitu.net/zakki/archives/6605を参照)

ところで、先日から「山辺の道一日旅行」と題して、5月9日に行われた万葉学会の小旅行のリポートを続けてきたが、道半ばにも至らぬうちにこんな記事をものし、挿入したのにはわけがある。想起すべきは上の洛陽市長の詩の起句と承句である。次の詩をお読みいただきたい。

翹首望東天 神馳奈良邊 三笠山頂上 思又皎月圓 首を翹げて東天を望めば こころは馳す 奈良の辺 三笠山頂の上思ふ 又た皎月のまどかなるを

現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑に彫り込まれた詩であるが、その作者は阿倍仲麻呂。通読すれば分かる通り前回の記事で話題になった

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 御笠の山に いでし月かも

をそのまま漢訳したような内容になっている。仲麻呂は上の歌を平勝宝5年(753)、帰国しようとした際の送別の宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとされているが、洛陽市長の詩と較べていただければ私の思うところの大方は理解していただけると思う。実はこの洛陽市長の詩碑の写真は、この3月ぐらいに見つけ撮影しておいたものなのであるが、この度の小旅行で春日大社若宮に訪れた時、ふとそのことを思い出し、皆さんにご紹介するならばこの機会にと、今回こうやってご紹介することにした。ここまでをお読みいただいてお分かりのように、この詩についての私の読みは極めて頼りないものであり、皆さんにお示しするのは躊躇されるものがあったが、まあ、間違っていれば皆さんにご指摘いただければそれでいいさとばかりにこうやって皆さんにお示しすることにした。

ともあれ・・・洛陽の市長が千と数百年前のこの国の英才に思いを馳せ、それを踏まえたうえで両市の友好の証にと、このような詩を詠まれたことは、とりもなおさず、彼の国の首長たちのその教養の深さを我々に教えてくれる。無論洛陽市長は特異な例である可能性はあるし、誰かの代作かも知れないが、少なくともこのような機会に詩という優れて文化的な営みを為そうとしたその姿勢や良しである。はたして・・・我が国の首長の何人がこのような気の利いた詩(それは何も漢詩である必要はないのは当然である)をものすことができるのか、あるいは為そうとするのか・・・疑問である。

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