大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道・・・大神神社

平等寺を後にして道を北に向かう。

ほどなく道は左に直角に曲がり西へと向かうが、すぐに右へと進路を変え、再び北へと進路を戻すことになる。そして道が北を向いたあたりから再び、この古道は三輪山から続く鬱蒼とした木立の中をくぐり抜けるようになる。

空気が変わる・・・長く人の手の入っていない木立のもたらすものであろうか・・・それとも、この山にいます神のなせるわざか。木陰に隠れたせいだけではない、あきらかな冷気・・・いや、霊気といった方が適切か・・・が一帯に漂っている。

思わず身震いをする。姿勢を正さねば・・・そんな気持ちに襲われる。そんな厳しくも引き締まった空気だ。世俗の汚れを微塵も許さぬほどの清浄な空気だ。そしてその空気は道を進むごとにその濃度を濃くし、その果てに見えるのが大神(オオミワ)神社である。

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大神神社式内社名神大社大和国一宮でもある。三輪明神、三輪神社とも呼ばれるてはいるが大神神社がもっとも正式な名称である。ちなみに名神大社とはその霊験が特にあらたかなる神がまつられている神社のこと。国家に災いごとがあった場合、国家的な祭祀が行われる場所でもある。

その歴史は古く、古事記日本書紀の神話にもその創建の由緒が語られており、大和朝廷の草創の時期からの厚い信仰があったことが窺われることから、日本最古の神社とも言われている。ご神体である三輪山は山中、山麓に点在する磐座(イワクラ)の有り様から縄文期、遅くとも弥生の時期から大和の盆地内での信仰の対象であったと思われる。

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三輪山そのものがご神体であり、今日でも本殿は存在しない。拝殿(現在のものは寛文4年1664の造営)三輪山自体を神体として三ツ鳥居を通じて拝する原始神道の形態を残している。三ツ鳥居とは、明神鳥居3つを1つに組み合わせたかなり特異な形式のものである。

主祭神は大物主(オオモノヌシ)大神。大己貴(オオナムチ)神、少彦名(スクナヒコナ)神を配祀する。大物主の「物」とは「モノノケ」「ツキモノ」の「モノ」であり、霊威を持った存在をさすが、その「モノ」の代表であることを示す「主」、さらにはその上に「大」がつくこの名は、いかにこの神が霊威あふれる神として人々に恐れ畏まれていたかを示す。ちなみにこの大物主大神は上記の大己貴神大国主)と一体神と考えられている。そのいわれは次のごとし。

大国主神大己貴神)は海を渡ってきた少彦名神とともに国造りに励んでいたが、その道半ばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が途方に暮れていると海原を照らして神が出現した。その神は「自分は大国主の和魂(ニギミタマ)である。自分を大和の国の東の山の上に祀れば国作りに協力しよう。」と言った。

そしてその神を祀ったのが三輪山というわけである。ここに出雲系の神である大国主神と大和系の大物主神が一体の神として認識されることになる。古代における大和と出雲との交流を垣間見るようで興味深い説話であるが、さらに三輪山の南方に現在も出雲という大字名が残っているのはこういった歴史の残照であろうか。

さてこの説話により三輪山が神います山としてのその由来を知ることができるが、そこに神の社が築かれ国家の守り神として祀られるようになるにはもう少し時代が下らねばならない。

それは第10代崇神天皇の御代のこと、国内に悪しき病が流行し天皇はいたく御心を痛めておられた。そんなある夜のことである。

天皇の夢の中にいかにも立派な神がお姿を表した。「自分は三輪山にいます大物主神である。このたびの悪しき流行病は我が心からのものである。我が子孫太田田根子に自分を祀らせたならばこのこの国は平らかに治まることであろう。」とその神は言った。早速天皇物部氏の祖伊香色雄(イカシコオ)に命じ、その子孫を捜させた。そして見つかったのが三輪氏の祖である大田田根子(オオタタネコ)である。そしてその大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたところ悪しき病の流行はたちどころにおさまった。

これが大神神社の始まりだという。また別伝として日本書紀には大物主神が倭迹迹日百襲媛命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)に神懸かりして、その神託に従い大物主神の子である大田田根子大物主神を祀らせたともある。この倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇の叔母に当たる人物で崇神王朝における巫女として活躍した。またその活躍の時期、巫女としての働きからかの邪馬台国卑弥呼と同一視する学説も提出されて、彼女の陵墓とされる箸墓古墳卑弥呼の墓であると考える向きもあるが確証を見ない。

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その後、この神社については奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が史書に多数見られ、皇室の守り神としての朝廷からの信仰がいかに厚かったかが窺われる。貞観元年(859)神階は最高位の正一位に達し、その絶頂を迎える。

現在は上記の拝殿より三輪山を拝するかたちになっているが、この拝殿が造営される前は三つ鳥居とそれに続く瑞垣が巡るに過ぎなかったという。大物主大神は蛇神・水神・雷神としての性格を合わせ持ち、豊穣・疫病除け・酒造などの神として今もなお篤い信仰を集めているが、皇室、ひいては国家の守護神であり、祟り神としての性格も備えていることも忘れてはならない。

また主祭神の大物主大神に関しては他にも興味深い説話がいくつか古事記に記されている。最後にその一つを紹介してこの悠久の神の社を後にすることにしよう。

三輪山の麓に勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)という美しい女人が住んでいた。その噂を耳にした大物主大神は、彼女に一目惚れしたが、声をかけるによい機会がない。しかたなく、大物主は丹塗りの矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が小川に用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、陰所を突いた。びっくりした彼女は、その矢を自分の部屋に持ち帰る。すると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。そして生まれた子が伊須気余理比売る(イスケヨリヒメ)である、後の神武天皇の皇后である。

東征して大和に入ってきた神武天皇と大和の地の神大物主大神の息女との結婚・・・これもまた興味深い説話には違いない・・・