大和逍遥   

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山辺の道1日旅行・・・7

赤穂神社は狭い。総勢80名におよぼうかとするこの日の一行が何時までもゆっくりできる場所ではない。一通りのレクチャーを受けた後はさっさと次の目的地へと出発する。次の目的地は鏡神社。新薬師寺入江泰吉記念奈良市立写真美術館の間にある鏡神社である。

赤穂神社から細い路地を50mほど西に進んだ後は左に折れ、100mほど南進。突き当りを左・・・すなわち東へと方向を変える。200mほど進むと奈良教育大学のフェンスが見えてくる。そのフェンス沿いにちょっと歩くと、そのフェンスになにやら興味深げな掲示物が・・・

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この時、私が建っていた場所は写真右下赤い三角形の現在地の場所。そしてそのすぐ上に書いてある文字が「大型基壇建物」。いったい何の基壇なのかというと、ここからほんの150mほど東に位置する新薬師寺の金堂のものだというのだ。2008年、奈良教育大学の校舎改築に伴って発掘調査が行われたのであるが、その際に同大学構内のこの場所に大型建物跡が発見された。。同年10月23日の奈良教育大学の発表によれば、発見された建物跡は基壇の規模が正面54メートル、奥行27メートルと推定され、その規模たるや東大寺金堂(大仏殿)のそれに匹敵するものであったという。奥行きこそは大仏殿に及ばぬものの、これだけ大規模な基壇を持つ建造物があったとすれば、新薬師寺のそれと推定せざるを得ない・・・というのである。新薬師寺は現在こそ方30mほどのささやかな寺院となってしまったが、かつては方4町(440m)の寺地を有する大寺であった。だとすれば、この位置に寺院の中核たる金堂が位置するとしても何の不思議はない。「東大寺山堺四至図」には新薬師寺の七仏薬師堂が描かれているが、おそらくはこの建物跡がこれに相当するものと思われている。

さて、本来の目的地に向かおう。目的地鏡神社は写真美術館のその向こうにある。

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祭神天照大神藤原広嗣・地主神。その中心は藤原広嗣式部卿左大臣藤原宇合うまかいの長男で、母は右大臣石川麻呂の娘である。当社のHPによれば広嗣は

幼いころより文武の才に長け、管弦歌舞の道、天文陰陽の技に精しかった。従五位大倭守、右近衛少将を経て、天平10年大宰少弐だざいのしょうにに任ぜられた。この頃、橘諸兄たちばなのもろえが右大臣となり、長らく唐で修行していた僧玄昉と下道真備(吉備真備)が朝廷の要職に登用され勢力を得ていた。しかし、地震、疫病などで都は乱れ、さらに、玄昉は非行多く僧にあるまじき所行があった。純清・剛直な広嗣公はこれを黙視できず、天平12年(740年)、災いの起こる悪い政治の原因は、玄昉や真備にあるとして、その上表文じょうひょうぶん天皇に送り、自らの考えを採用するようにもとめた。しかし、朝廷はただちにこれを謀反むほんと断定し、7日後、広嗣公を討つ軍が出発した。同9月、広嗣公はやむなく兵を集めて遠賀郡おんがぐんに軍を構えた・・・10月上旬、広嗣軍は官軍と筑後板櫃川いたびつがわに戦い、たちまち破られ肥前長野村にて捕えられ、松浦郡にて討たれた。義志かなわず、反乱の汚名をこうむって討ち取られたことで、広嗣公の怨霊があらわれたという。 その後僧玄昉は天平17年筑紫に配せられたが、観世音寺落成式に臨んだ時、急死した。世の人はこれを広嗣公の祟りとした。真備もまた孝謙天皇が即位してから肥前に左遷された。この左遷に際し、広嗣公の霊を祀り鏡尊廟(現唐津市の鏡神社)を建てて崇められた。それ以降、霊信仰が世にあらわれた。・・・現社地は広嗣公の邸宅跡との伝えもあるが天平時代後期に新薬師寺復興の際、その鎮守神としてここに勧請された。

のだという。広嗣の御霊を祀った神社らしく、だいぶ広嗣よりに思いを寄せた書きぶりではあるが大筋は理解できる内容かと思う。

実はこの藤原広嗣もまた万葉集に次のような1首残している。

藤原朝臣廣嗣櫻花贈娘子歌一首 この花の 一節ひとよのうちに 百種ももくさの ことぞ隠れる おほろかにすな この花の一枝の中には、私の言いたいたくさんの言葉がずっしりとこもっています。そろそかに扱ってくださるなよ。

万葉集巻八・1456

なんともまあ押しつけがましい傲慢な歌であることか。だから、この歌を送られた「郎女」も少々むっと来たのだろう。

娘子和歌一首 この花の 一節のうちは 百種の 言待ちかねて 折らえけらずや この花の一枝は、その中にあまりにたくさんこめられたお言葉を支えきれなくなって、このように簡単に折れてしまったのではありませんか。

万葉集巻八・1457

と痛烈にやり返した。むろん、額面通りに理解することはおそらく正しくないであろう。この二人の間には、これ以前にある程度の関係は出来上がっていて、あえてへらずぐちのやり合いを行うことによって、その親しさを確認し合った歌であると理解する方が正解には近いかとは思う。例えば、前回の記事に出てきた氷上夫人の妹藤原夫人(五百重娘)が天武天皇と交わした有名な2首があるが、この広嗣と「郎女」の2首は「男側からの高飛車な物言い→女の痛烈なしっぺ返し」という構図から見ればまさしくその伝統にのっとったものと理解することが出来る。

ただ・・・歴史の教科書などによって広嗣を知った私のようなものにとっては、上の贈答を額面通り受け取ったほうが、長く思い抱いてきた彼のイメージにより近いもののように思われ、そんな高飛車な求婚にピシッと言い返した「郎女」の才覚に拍手を送りたくなってしまうのも事実である。