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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道1日旅行・・・8

鏡神社に隣接して新薬師寺はある。

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山門前に止められてある自転車はレンタサイクルと見受けた。奈良観光のお二人のものかと思われるが、こういった光景はなんとなくこの古寺に対する親しみを感じさせるものである。

新薬師寺は現在華厳宗の寺院である。本尊は薬師如来、開基は光明皇后とも聖武天皇とも伝えられているが、創建の正確な時期や事情については正史に記載がなく、確かなことは分かっていないとされている。

平安時代末期成立の『東大寺要録』には、末寺である新薬師寺についての記載があり、同書の巻第一・本願章天平19年(747)の項

天平)十九年丁亥ひのとゐ三月、仁聖皇后天皇不豫みやまいり新薬師寺立つ。七仏薬師像を造る。

とある。仁聖皇后は光明皇后のこと。となれば天皇聖武天皇となる。不豫は貴人の病のことを言う。とすれば、聖武天皇の病気平癒のため光明皇后がこの寺を建立したことになる聖武天皇光明皇后の眼病平癒を祈願して天平17年(745年)に建立したという伝承もあるらしい・・・未確認)。この辺りについては当時のHPに次のように書いてある。

薬師寺天平十九年(747)三月、聖武天皇の病気平癒を祈って、光明皇后によって創建されました。聖武天皇天平十五年(743)、動物植物ことごとく栄える世の中をめざし、皆で力を合わせて廬舎那大仏を造立することを発願され、近江国信楽宮で行基菩薩をはじめ多くの人々とともに大仏造立に着手されました。ところが天平十七年(745)に入り、山火事と地震が頻発したため、工事を中断して平城京に戻られました。大仏造立は平城宮の真東の山麓(現在の東大寺)で再開されましたが、天皇ご自身は体調を崩されました。 そこで天皇の病気を治すため、都とその近郊の名高い山、清らかな場所で薬師悔過(やくしけか)が行われ、都と諸国に薬師如来像七軀を造立し、薬師経七巻を写経することが命じられました。これをきっかけに、光明皇后によって春日山高円山の麓に、新薬師寺(当時は香山薬師寺、香薬寺とも呼ばれた)が造営されました。

続日本紀天平17年を見れば確かに、山火事や地震が頻発しており、同年9月17日、天皇は「勅朕頃者枕席不安・・・朕、頃者このごろ枕席しむせき安からず。」と体調の不良を訴え、大赦を命ずる勅を発しているが、その大赦も空しく19日には「不豫」となっている。そしてこの寺が建立されたとする天平19年には、元日の朝賀の儀も行われなかったこと(色々な事情もあっただろうが・・・天平18年大雪・天平20年元正太上天皇崩御、くわえてこの朝賀の儀が再開されるのは聖武天皇が娘である孝謙天皇に位を譲った後の天平勝宝2年(750)のことであったことを考えればこの病はなかなか癒えなかったと見える。

そんなこの寺の由来を物語るような1首が万葉集には残されている。

藤皇后奉天皇御歌一首 我が背子と ふたり見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しくあらまし

万葉集巻八・1658

藤皇后はもちろん光明皇后のこと。だから我が背子は当然聖武天皇ということになる。「見ませば」はいわゆる反実仮想。であるから、今、彼女は降り敷いた美しい雪を「我が背子」とは一緒に見ていないことになる。そんな残念さを「背子」である聖武天皇に伝えようとでもしたのであろうか。それは公務の多忙ゆえかもしれない。あるいは・・・病のせいか・・・

美しいもの、珍しいものを目にすれば、愛しい人とともに見たくなるのは必然のこと。一人の女としての愛しい人に対する想いが、この1首からはうかがい知ることが出来るのではないだろうか。

さて、新薬師寺は今でこそ30m四方ほどのこじんまりとした寺となっているが、最盛期には4町(約440m)四方の寺地を有したた大寺で、現在の奈良教育大学のキャンパスあたりまでが新薬師寺の境内地であった(詳細は前回の記事参照)。平安時代以降、落雷や台風による大風といった天災のせいで規模は大幅に縮小されたが、堂内にいらっしゃる仏様や本堂は他に並びのない貴重な文化財である。それらの全てをここでお示ししたいところだが、こういったものの性質上写真撮影はできない。上に示した当寺のHPよりご覧なっていただければ幸いである。そこには私が旧式のコンパクトカメラ等で撮影したものよりは数段美しい画像が皆さんをお待ちしている。

ところで、この新薬師寺の山門前にはちょいと気になる小さな祠が建っている。

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高さは私の身の丈にも及ばないであろうか・・・本当にかわいらしい御社である。その名は、比売ひめ神社。前回ご紹介した鏡神社の末社である。この場所は古来、高貴なる姫君が祀られた比売塚として伝えられていた塚があった。これまたすでに述べた内容ではあるが、この一帯には前々回の記事で描いたように十市皇女とほちのひめみこ氷上夫人ひかみのぶにんといった高貴なる女性が葬られたと日本書紀にも記されている。そこで1981年、この比売塚を十市皇女の墓所と定め、祭神として祀られるようになってのだという。社前には前回ご紹介した

十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹芡刀自ふぶきのとじ作歌 川の上の ゆつ岩群に 草生さず 常にもがもな 常処女とこをとめにて

万葉集巻一・22

を刻んだ歌碑が建てられている。

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さて、新薬師寺の山門前にはもう一つ気になるものがある。この比売神社の向かって左隣に

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ご覧のように大きな岩が四つ、きれいに並んでいる。これは手前の札で分かるように神像かむかた石と呼ばれているものである。横に立つ由来を説明した立札には

弘文天皇の御曾孫淡海三船あふみのみふね公は本邦最初の漢詩集「懐風藻」を編集せられ四面楚歌の中にありながら曾祖父なる弘文天皇大友皇子)いませし日を顕彰せられ、孝養を賛へ四代にわたる御姿石を勧請し永く斎き奉らんと願ふものなり。

とある。淡海三船は上にもある通り、わが国最初の漢詩集である懐風藻を編集したとも言われる奈良時代の官人。由来書にもある通り、壬申の乱以降主流をなした天武天皇系の皇統からすれば、反主流である天智天皇の後裔。しかも反逆者の末裔である。その生きづらさは並大抵のものではなかったであろう。

そういえば懐風藻大友皇子の二つの詩から始まる。さらにはその後に大友皇子と同じ天智天皇の皇子川嶋皇子の作を1首。さらには天武天皇の皇子ではありながら、当時は反逆者として位置づけられていたであろう大津皇子の4首を配している。無論そこには作者の時代を意識して・・・との編集意識はあったのだろうが、そのような3人を、詩集としては大切な冒頭部に並べて配することは、見るものによってはそこに何らかの意図がはたらいていると勘ぐられる可能性が無きにしも非ず・・・。もし一般に言われるように懐風藻が彼の編集とするならば、この冒頭部の構成は、かなり勇気が必要な営みであったのではないかと推測される。

さて、今年度の万葉1日旅行はここでまだ道半ばにも達していない。昼食もまだである。次は志貴皇子離宮跡とも伝えられている白毫寺。昼食はそこでとる予定である。