大和逍遥   

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纏向遺跡・・・7


前方後円墳の語るもの>

ところで、我が国の独特の墳墓のスタイルとして前方後円墳をあげることができるが、定型化した前方後円墳の発祥の地としてこの纏向の地を上げることにさしたる異論はなさそうである。なぜならば、定型化された巨大前方後円墳としては最古のものと思われる箸墓古墳がこの地に存在するからである。そしてその後裔とも言うべき崇神天皇陵、景行天皇陵といった巨大な前方後円墳がこの地に隣接する地域に作られている。陵墓の巨大さがその地域の権力の巨大さを示すとすれば、この地域がこの時期の政権の中枢であり、これらの古墳はその王墓として考えることはさほど不自然ではない。

諸説分かれるところはあるが箸墓古墳の築造の時期は遅くとも3世紀後半を下ることはない。これに続く崇神・景行陵もそれからは百年を下らない時期に築造されていることに疑いはない。そして、これらの定型化された前方後円墳という形式が以降諸国に伝播し、その分布状況は汎全国的といってもいい広がりを見せる。この纏向の地に発生した政権の全国的な広がりを物語るものといってよい。

そして箸墓古墳に先行するように・・・箸墓古墳から比べれば小規模ではあるが、その築造の時期を考えれば・・・大型といってよい古墳が纏向の周辺に散在している。後の定型化された前方後円墳に比べれば、前方部がやや未発達の纏向型と呼ばれる前方後円墳群である。これらの纏向型前方後円墳は纏向の地に多くの人々が集まり始めたと見られる二世紀末あたりから築造され始めており、この二者の関係は浅からぬものがあることを窺わせる。

しかしながら、この前方後円墳というスタイルは、それまで大和、いや畿内では地では見られなかったスタイルであり、小規模ではあるが、その先駆的な形式の墳墓・・・円墳に小規模な方形の突起物がついたもので、この段階ではまだ前方後円墳と呼べるものではないが、それ以前の円墳とは明らかに様相の違う墳墓が・・・吉備地方で多く見られている。

さらには、一緒に埋葬されている土製品の形式も吉備の様式を受け継ぐものが多く、ここに纏向の地における都市の発生に関して吉備地方の勢力が一躍を担った可能性の大きさを感じ取らねばならない。この遺跡のある桜井市には今もなお吉備という大字名が残っていることも吉備の勢力の流入の可能性を語る証左と考えてよいのかもしれない。

さらには、この域内の古墳には破砕された鏡が一緒に埋葬されている例も少なくない。これらは北九州地域の墳墓に多く見られる習慣であり、纏向以前には他の地域ではあまり例の見られなかったものだ。さらには古墳全体を覆う葺石の存在が多くの古墳に見られているがこれは吉備から出雲にかけて、あるいは四国などでみられる様式で、それまでの大和では見られなかったものだ。朝倉・出雲というやはり現在も同市に残る大字名は上に同じように北九州・出雲の勢力の流入を裏付ける証左となろう。

それでは大和のオリジナルは・・・

周壕の存在がそれである。上に述べ来たった地域においての墳墓では少なくとも纏向以前には周囲に壕を巡らすような習慣は見られない。これは大和から尾張にかけての習慣であるといってよい。そして纏向以前、以降も含めて大和の地においては一つの墳墓に一人の死者を葬る。他の地域が一つの墓に複数の死者を祀ることがよく見られることから見れば、これのみは大和特有の風習であったといえるかもしれない。

さて、これらの事実を考え合わせたとき、そこに西日本諸国が参加した巨大な連合政権の存在が見えてくる。北九州・吉備を中心とした瀬戸内。出雲・伊勢湾沿岸部、そして大和のうちのどれか一つが突出した力をもってして他を強権的に服従させたのではなく、それぞれの勢力が融和的に関係を結んだ連合政権の姿が・・・

もし仮にそのうちの一つの勢力がその強力な力を持って他を服従させたのだとしたら、この連合政権の象徴ともいえる前方後円墳はかくも多文化的な様相は見せず、他を制圧した勢力のオリジナルのスタイルを貫くであろう。そこに他に譲らねばならない理由はどこにもないそれぞれの勢力が融和的に結合していったからこそ、それぞれの地域の文化の特色を併せ持った定型の前方後円墳が誕生したのである。

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