大和逍遥   

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山辺の道1日旅行・・・10

昼食をとる予定の白毫寺は宅春日神社から徒歩10分あまり。静かな静かな白毫寺町の街並みを東へと向かった先にある。道の突き当りに幅の狭いコンクリートの階段がある。そしてそれは途中から古びた石段に変わり、そこを上り詰めれば百毫寺である。

そう楽ではない石段を一行はぞろぞろと登る。みんなお腹がペコペコである。

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白毫寺は霊亀元年(715年)、天智天皇の第7皇子である志貴皇子の山荘をその没後に天皇の勅願によって寺としたのに始まると伝えられる。本尊は阿弥陀如来。開基は勤操だという。寺号の「白毫」は、仏の眉間にある白い巻毛のこと。

志貴皇子

采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く

万葉集巻一・51

葦辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ

万葉集巻一・64

石走る 垂水たるみの上の さわらびの 萌え出づる 春になりにけるかも

万葉集巻八・1418

などの秀歌で知られる万葉歌人であり、その山荘跡となれば万葉学会主催の今回の徒歩旅行にはまことに相応しい昼食場所と言える。奈良市東端の高台にあって、眺望の開けた静かな寺である。

・・・と、問題は此処で起きた。私の記憶が正しければ以前私がこの寺を訪れた時には飲食に関してうるさい約束事などなかった。そしてそれは今回のこの一日旅行にお連れ下さっている先生方にとっても同じであった・・・が、寺の方の説明によれば、数年前からこの寺の境内は飲食が禁止になっていたのだという。もう正午をかなり回っていて、参加者の皆さんのお腹はかなり激しく固形物を求めていた。しかし・・・さすがである。先生方は石段を下りて少し北に行った場所に手ごろな公園があるという。

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私たちは早速石段を下り、移動を始めた。無論、せっかくここまで来たのだからと白毫寺を拝観なさっている方々もいらしゃった。朝からしょぼしょぼ降っていた雨ももう降ってはいない。お天道さんは顔を見せていないが、かえってその方が涼しくって心地よい。

歩く事5分。私たちは思い思いの場所に坐り昼食をとり始めた。すると私の目に入ってきたのが・・・

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御蓋みかさ山である。そして御蓋山に向かって下ってきているのが春日山の稜線である。いつもは御蓋山を西から見ることが多く、この部分はその陰に隠れてしまい、春日山御蓋山とがどのように続いているかを見ることが出来なかったし、あんまりそのことを意識することもなかったが・・・偶然にもその姿を確認することが出来た。「あんまり意識することもなかった」とはいうものの、こうやって目の当たりにすれば何某かの感慨が起きてくるのは当然というもの。私は暫し見入ってしまった。

30分ほど昼食をとりながら足の疲れを癒した後、私たちは次の目的地へと向かった。視野には広々とした奈良盆地が入ってくる。そしてこの白毫寺のある高台から西に広がる一帯(春日野の南)を高円たかまどという。平城人にとっては手軽な行楽地であったらしい。我らが大伴家持だって友人と連れ立って出かけることがしばしばあったらしい。

天平勝寶五年八月十二日二三大夫等各提壷酒 登高圓野聊述所心作歌三首 高円の 尾花吹き越す 秋風に 紐解き開けな 直ならずとも

右一首左京少進大伴宿祢池主

天雲に 雁ぞ鳴くなる 高円の 萩の下葉は もみちあへむかも

右一首左中辨中臣清麻呂朝臣

をみなへし 秋萩しのぎ さを鹿の 露別け鳴かむ 高円の野ぞ

右一首少納言大伴宿祢家持

万葉集巻二十・4295/4296/4297

まあ、考えてみれば志貴皇子が山荘を構え、さらには

宮人の 袖付け衣 秋萩に にほひよろしき 高円の宮

大伴家持万葉集巻二十・4315

とも詠まれた離宮(高円離宮・・・高円山山頂付近にあったらしい)もあったような場所であったわけであるから、風光明媚な場所であったのは当然と言えば当然であったはずだ。私たちはその高円の野の一画に足を止め、またまたS先生のレクチャーに耳を傾ける。

霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌一首 并短歌 梓弓あづさゆみ 手に取り持ちて  ますらをの  さつ矢手挟み  立ち向ふ  高円山に  春野焼く  野火と見るまで  燃ゆる火を  何かと問へば  玉鉾たまほこの  道来る人の  泣く涙  こさめに降れば  白栲の  衣ひづちて  立ち留まり  我れに語らく  なにしかも  もとなとぶらふ  聞けば  のみし泣かゆ  語れば  心ぞ痛き  天皇すめろきの  神の御子の  いでましの  手火の光りぞ  ここだ照りたる 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに 御蓋山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに

右歌笠朝臣金村歌集出

万葉集巻二・230/231/232

笠金村の志貴皇子挽歌である。かなり時間も立っているので、ここでその時のレクチャーの内容を再現することは難しいが、一つだけ記憶していることがある。長歌の中では「高円山に 春野焼く 野火と見るまで」「いでましの 手火」を持った人々の行列が歌われているが、これは志貴皇子の葬送の行列である。皇子の御陵は以前述べたように高円山の越えたあたりに広がる田原の地にある。行列は高円山を越え田原へと向かっていたのである。

ならばそのルートは・・・?

皇子の住居は春日にあったとも推定されているが、仮にそうだとすると春日から田原へと向かおうとすれば高円山春日山の間・・・能登川を遡って行く(滝坂の道)のが普通であろう。しかし、この道はあまりに急・・・高円山の南、鉢伏峠を越えたのではないか・・・とするのがS先生の弁であった。

ふと・・・北に目をやると御蓋山へと長くのびる春日山の美しい稜線が目に入った。

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