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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道1日旅行・・・11

5月9日に行われた万葉学会主催の徒歩旅行についてのレポートがまだ終わらない。開催されてからもうふた月もたとうというのだから、そろそろいい加減にしなければならないとは思うのだが遅々として進まない。あと少しの所まで来ているのだが・・・まあ、なんとか今日のレポートで終了すれば良いのだが・・・

白毫寺をあとにして高円の野においてS先生より笠金村の志貴皇子の挽歌についてのレクチャーを受けた後、私たちはそのまま南に下り、去年にこの催し事の最終目的地点である祟道天皇八島陵へと向かう。今年もここがこの1日徒歩旅行の最終目的地になっているのだ。そしてそこで過去四年にわたる山辺の道の徒歩旅行は終了するはずであった・・・が、進むべき道が工事中で通れない、という事態が発生してしまった。自動車ではなく徒歩による通行なのだから何とかならないのかと主催者たるS先生は工事のおじさんに食い下がる。しかし、その努力空しく交渉決裂、私たちは大幅なルート変更を余儀なくされた。今いる場所から西に少し行けばバス道があり、そこから祟道天皇八島陵はそう遠くはない位置にある。しかしながら、この道はあまりに風情にかける。第一、解散した後多くの方々はバスに乗ってこの道を通らなければならないのだ。それではあまりにも興趣に欠ける。

S先生と他数人の先生方が相談なさる・・・そして私たちは来た道を少し引き返し、奈良県立高円高校の東から水間峠へと入ることになった。水間峠は高円山の南を抜けて、そのまま行けば太安万侶の墓や志貴皇子の御陵がある場所。それはそれで興味深い地ではあるが、今日の目的地はあくまでも祟道天皇八島陵である。私たちは峠をいくらか上った場所にある春日病院のところで道を右にそれ、そこから南に向かい目的地を目指すことになったのだ。

途中ですぐにそれるとはいえ、春日病院までもなかなかな急坂、日頃運動不足の私などは両足の臑のあたりがパンパンになり始めた。ところが・・・周囲を見れば、これしきの坂道は何ともないよとばかりのお元気な方々ばかり。見れば私よりも10歳は年長とお見受けする方々ばかり。私より10歳上ほどといえば・・・そう、団塊の世代である(そういえば薄氷堂さんもこのあたりのお年頃?)。団塊の世代恐るべし・・・とはその時の私の素直な感想である。

そういえばS先生も確かその世代。道理でバイタリティーに溢れているはず・・・と一人であらぬ感心をしていると道は次第に細くなり、右へ左へと大きくうねり始めた。道の両脇には深々とした草むらや藪が茂り、人間が通る空間を塞ぎはじめた。まるでけもの道だ。川が見える・・・岩井川だ。八嶋への道ならばいくらでもありそうなものの、わざわざ水間峠を春日病院まで登ってきたのは、最初予定していた道以外にこの岩井川を渡る橋がなかったからである。コンクリート製であったかと記憶しているが、そんなには新しくはない・・・ささやかな橋であった。

道はここから左右にうねりながら急激な上りとなる。ここあたりはもうすでに鹿野園ろくやおんである。この地名に御聞き覚えのある方はさぞや仏法の心得のあるお方・・・そう、お釈迦様が悟りを開いてのち初めて説法し、五人の比丘を導いた所。なんでも大仏開眼の時に天竺から招かれた菩提僊那だいせんが名付けたのだという。菩提僊那は奈良の東郊に「北大和五山」と呼ばれる五つの寺を設け、そしてそれらの寺にインド五精舎にちなみ次のように名を付けた。忍辱山円成寺菩提山正暦寺、鹿野園梵福寺、誓多林万福寺、大慈山薬師寺の五つである(現存ははじめの二つのみ)。

ただしこれは言い伝え。これらの寺の建立はすべて平安時代に入ってからのものとみられ、大仏開眼とは時代が合わない。

道は次第に開けてきた。藤原町に入ったらしい。白山比咩しらやまひめ神社が見てきた。主祭神は無論菊理媛尊くくりひめのみこと。その名「括り」にちなんで男女の仲を「括る」縁結びの神として知られている。

(詳しくは総本宮のHPを参照のこと。ここは話を先に進めたい。)

P1060999

右端に映っておられるのがS先生。当社についてのレクチャー中である。

この神社・・・というより、菊理媛がなぜ縁結びの神となるのかは日本書紀の次の一節による。

其のいも泉平坂よもつひらさかに相闘ふにいたりて、伊弉諾尊いざなきのみことのたまはく「始めうがらの為に悲しび、また思哀しのひけるは、是吾がをぢなきなりけり。」とのたまひふ。時に泉守道者よもつもりひと白云まをさく「みこと有り、のたまはく、『吾、いましと已に国を生みき。奈何いかぞ更に生かむことを求めむや。吾は此の国に留まらむ。共に去ぬべからず。』とのたまふ。」とまをす。是の時に、菊理媛くくりひめ神も白す事有り。伊弉諾尊聞こしめして之をめて、すなは散去あらけたまふ。

日本書紀・神代の巻

ご存知、日本最初(あるいは世界最初)の夫婦げんかのシーンである。詳細は先の動画に譲るとして、この世とあの世に分かれての夫婦げんかを見事に調停した神として菊理媛は描かれている。菊理媛が一体どのような言葉にて伊弉諾伊弉冉いざなみの2神の仲を取り持ったのか、日本書紀には「菊理媛神も白す事有り。」としか書いてないので何とも言えぬが、とにかく仲を取り持ったのである。そこに先に述べた「括り」の名の由来があったのだろう。そして・・・今の様な男女の仲の「括り」の神として、即ち縁結びの神としての信仰が広がったのだろう。

ちなみに当社は歯痛にも神効を示す神として地元では深く信じられていたらしいが、これがいったい菊理媛のどのような点を持ってそのような信仰が生まれたのか・・・・菊理媛は神話に登場するのが、上に示した1場面だけであるので何とも想像のしようがない。

続いて嶋田神社。祟道天皇八嶋陵がだいぶ近づいてきた。

P1070007

祭神は写真でもわかるように神沼河耳命と祟道天皇である。神沼河耳かむぬなかはみみ命は神武天皇の皇子で第2代綏靖すいぜい天皇のこと。いわゆる缺史八代の内の御一人で、その存在が疑われているお方だ。祟道天皇については以前

事の発端は・・・造長岡京使・藤原種継たねつぐの暗殺事件である。その背後で動いたとされた桓武天皇の皇太弟早良さわら皇子は、皇太子を廃され淡路にながされる途中、無実を訴え絶食して憤死する。

祟道天皇八島陵

と書いたように非業の死を遂げた皇子で桓武天皇の同母弟である。死後、長岡京において、

788年、桓武天皇夫人・藤原旅子が病没。 789年、蝦夷征討軍、大敗。 790年、桓武天皇生母・高野新笠が病没。天皇夫人・藤原乙牟漏が病没。 791年、長岡京畿内天然痘が流行。 792年、桓武天皇長男・安殿親王が病に臥せる。長岡京で2度の洪水。

と凶事が続き、これが早良皇子の怨霊によるものと信じられた。桓武天皇長岡京を捨てて、平安京へと再遷都を決意したのもこれがゆえのことだとも言われている。

さて、当社は江戸時代には八嶋神社・祟道天王社とも呼ばれていたらしい。写真の本殿は、春日大社の古記録によると享保12年(1727)春日大社の第45回目の式年造替の際に、旧本殿の第2殿を移築したものとされる。が・・・部材に「三之御殿」とあるから、春日大社本殿の第3殿をここに移築したものと考えた方がよさそうだ。いずれにしても春日大社の旧本殿であることには間違いない。

この6月の末日まで普段は直接拝すことのできない春日大社の本殿を眼前にすることが出来たことについては以前述べた。特別拝観の時期を過ぎた今、次の式年造替までの20年の間私たちは春日大社本殿を中門越しに拝さなければならないが、どうしても見たければ・・・・ここに来ればよい。

さあ、次はいよいよ最終目的地の祟道天皇八島陵である。嶋田神社からは徒歩で5分もかからない。そして、この最終目的地に着いては昨年詳しく述べたので、今回はその時の記事をお読みいただけばそれでいいかと思う。

長々と書き連ねてきた今年の万葉学会主催の万葉1日旅行(本ブログではそのコースから山辺の道1日旅行と題していた)も、これでいよいよ解散である。祟道天皇八島陵からほど近いバス停に参加者の皆が急ぐ。その数5~60人。幾人かはさらにどこかに歩いて行かれる方もおられた。程なくバスはやってくる。普段はごく少数の乗車客の身の路線とて、バス停に並ぶ大人数に運転手さんは少々驚いた顔。5~60人は一斉に乗り込んだ。15分も揺られれば近鉄奈良駅である。

ただし・・・ここで今日のスケジュールの全てが終わったわけではない。この日バスを降りたのは16時ちょっと前であったが、近鉄奈良駅から15分ほど歩いたところにあるJR奈良駅のホームに、程よく酔った私がたどり着いたのは・・・22時をまわってからだった。