大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

多神社に行く

多武峰とおのみね音羽おとわ山(万葉集では倉橋山)が織りなす渓谷をその源とする寺川と、同じく多武峰の西の斜面にある高家たいえを水源とする米川は、途中いくつかの小河川を合流しながら桜井市から橿原市へと流れ、冥途の飛脚で有名な新口にのくち村(橿原市新ノ口)あたりで合流し、そのまま北上して大和川となる。

その合流点辺りから、流れと平行して北へ走る道を少しだけ行くと、左側に唐突に立派な鳥居が目に入る。

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見れば道は集落を抜けて奥へ奥へと延びている。集落の名は「おお」。人によっては「はは~ん、今から三友亭の行くところは読めたぞ。」と思われた方も多かろうと思われる。そう・・・今日の目的地は多神社である。この鳥居は多神社の一の鳥居だったのだ。

集落の中を抜ける細い道を車を走らせること3分。距離にして7~800mの集落を抜けた先に多神社はある。多神社は正式には多坐弥志理都比古おほにますみしりつひこ神社。一般には多神社と呼ばれ、多社、多坐神社、太社、意富社とも書かれることがある。

主祭神は第一社が神倭磐余彦かむやまといはれひこ尊。ご存じ神武天皇のこと。第二社は神八井耳かむやゐみみ命。多氏の祖神であり、神武天皇の皇子である。続いて第三社は神沼河耳かむぬなかわみみ命。神八井耳命の弟で、もちろん神武天皇の皇子。神武天皇に次いで皇位につき第2代綏靖天皇となる。最後に第四社は姫御神ひめみかみ玉依姫たまよりひめ命のことで神八井耳命の祖母に当たる。

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この四柱の神は写真のように並んで祀られている。東西に一間社の春日造が並ぶ四殿配祀の形式である。他にこの一族の中では最もその名が知られているであろう太安万侶おほのやすまろも本社の南、小杜こもり神社に祀られている。この地は多氏の本貫であり、多氏の祖神である神八井耳命を祀ったのがその始まりかと思われる。

但し、この祭神については元文2年(1737)の多大明神社記から言われているもので、そこにいたるまでは幾度かの変遷があったことが大和史料などから窺える。

・・・なんて堅苦しい話はここまでにして・・・以前から訪れたいと思っていて、その前を何度も通り過ぎながらなかなか足を踏み入れることが出来なかったこの神社に初めて私が訪れたのは去年の秋・・・出張でこの神社のそばを偶々通りかかったときのことである。私の居住している場所は近くの小学校のスクールゾーンとなっており、朝7時30分を過ぎると地元住民といえど警察の許可無しには車で通行することが出来ない。警察までわざわざおもむきいささかの手続きを取ることが面倒で仕方のない私は、そんな面倒を避けてどんな日でもその設定された時間より家を出るのを常としている。

そしてその日も早々に家を出たのだが、出張先との約束の時間までにはまだかなりの時間がある。あまり早くに着いても向こうにとっては迷惑な話。どこかで時間をつぶさねばならない・・・そうだ、せっかくだから・・・と私はふと多神社に立ち寄ることを思いついた。はじめ車をどこに止めようかと迷ったが、見れば道から境内の二の鳥居までの間にはかなり広いスペースがあり、さらに良く見れば車が通った跡のようなものもほの見える。聖なる空間に車で乗り入れることに私は少々躊躇をしたが、他に車を止められそうな場所はない。仕方なしに私は境内に少しだけ入りかけた場所に遠慮がちに車を止めた。

南北に細長い境内を私は拝殿を目指した。左には宮司の住居と思われる建物。現在の宮司のお名前は多忠記。そう・・・太安万侶の末裔である(太安万侶から51代目)。

右には幾つもの境内社。小さな祠がかなりの数、立ち並んでいていちいちを紹介しきれない。(もしご興味があるのならばココをクリック)。 DSC_0012

いよいよ、本殿の前に私は立った。古事記という我が国最初の史書を編纂。しかも漢字しかなかったあの時代に、かの国の言葉を表記するためのその漢字でもって和文を表記しようとした先人の労苦を偲び・・・あわよくばその御利益にあずかることを期待し私は心を込めて手を合わせた。もちろんお賽銭だって・・・奮発した(その額はいくらかは言わない。それを明らかにすることにより我が懐中の状況が明らかになるのを恐れるがゆえである。)

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