大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

今週の三輪山・・・多神社余話

撮影日失念

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来る日も来る日もうっとおしい梅雨空が続いていたせいで、最近「今週の三輪山」と題して、週に1回ずつお届けしていた記事がとんとご無沙汰になっている。あまり間が開いてもいけないと思うが、これはと思うような写真が撮れないのだから仕方がない。そこで以前取った写真の中から一枚、お届けすることにした。

先日の記事の冒頭でお示しした多神社一の鳥居を抜けた場所から振り返って撮った写真だ。鳥居越しに見える山は、もちろん三輪山である。多神社の前を東西に走る道をまっすぐに東へ7~800mにこの鳥居は位置するのであるから、その鳥居越しにこのように三輪山が見えるということは多神社から見ると三輪山は真東にあることになる。

三輪山を通る緯線は34度32分・・・いわゆる「太陽の道」である(その詳細はこちらを参照にしていただきたいと思う)。その有無の存疑は私に云々することはできないが、仮に存在したとするならば、上の写真はここ多神社も太陽の道沿いに位置することを示すことになる。

「太陽の道」の有無はともかくとして緯線34度32分上にあるということは、多の地は春分秋分の頃、東方に位置する三輪山から昇る朝日を拝するにもっとも適した場所であるということになる。日本書紀崇神天皇の6年に出てくる笠縫邑は当地であるという説が一部にあるのも、ひょっとするとこの事実を裏付けとすることかも知れない。天照大神・・・すなわち日輪が大和随一の聖なる山の頂より上り来る姿を、しかも春分秋分という農耕民族にとって最も大事な時期に拝むことが出来るこの地が、古代人にとって極めて特別な場所であったと考えることはそんなに不自然なことではない。

さらにもう一つ・・・多氏と三輪山の密接な関係を示す興味深い説話が古事記には残されている。それは神武天皇が神武東遷を成し遂げた後のことである。

ここに七たりの媛女をとめ高佐士野たかさじのに遊び行くに、伊須氣余理比賣いすけよりひめ其の中に在り。 しかして大久米おほくめの命、其の伊須氣余理比賣を見て、歌を以ちて天皇まをしてひしく

大和の 高佐士野を 七行く をとめども 誰をしかむ

しかして伊須氣余理比賣は其の媛女等のさきに立てり。 すなは天皇、其の媛女等を見て、御心に伊須氣余理比賣の最前いやさきに立てるを知らして、歌を以ちて答えてらししく、 かつがつも いや先立てる をし枕かむ しかして大久米の命、天皇みことのり以ちて、其の伊須氣余理比賣にりし時に、其の大久米の命のける利目とめを見て、あやしと思いて歌ひしく あめ鶺鴒つつ 千鳥真鵐ちどりましとと など裂ける利目 爾して大久米の命、答えて歌ひしく、 媛女に ただに逢はむと 我が裂ける利目 かれ、其の孃子をとめ、「仕えまつらん」と白しき。 是に其の伊須氣余理比賣の命の家、狹井河さゐがはに在り。 天皇、其の伊須氣余理比賣のもと幸行いでまして、一宿ひとよ御寢みねし坐しき【其の河を佐韋河(狭井河)と謂いし由は、其の河の邊に山百合草さはに在り。 故、其の山百合草の名を取りて佐韋河となづけき。山百合草の本の名を佐韋と云うなり】(このあたりについては以前一度書いた)。 後に其の伊須氣余理比賣、宮の内に參入まゐりし時に、天皇の御歌に曰く、 葦原の しけしき小屋に 菅畳すがだたみ いやさや敷きて 我が二人寝し しかしてす御子の名は、日子八井ひこやゐ命、次に神八井耳かむやゐみみの命、次に神沼河耳かむぬなかは命【三柱】。

古事記・中巻・神武天皇

何のことはない。神武天皇によるナンパの話である。世にこれを聖婚というが、やっていることは我々下々の者とそう変わりはない。そしてお二人の間にお生まれになったのが日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命の三柱の皇子。

これがなぜ多氏と三輪山の密接な関係を示すのか・・・説話中に「是に其の伊須氣余理比賣の命の家、狹井川の上に在り。 」とあるが、狹井川は三輪山に源を発し、その麓を流れる川。つまり多氏の祖神八井耳命の母親の実家は三輪山の麓にあったということになる。これだけでも多氏と三輪山の密接な関係の一端は窺われるが、さらに伊須氣余理比賣の出自をたどるとその関係に深さは抜き差しならぬものになる。

三嶋の湟咋みぞくひむすめ、名は勢夜陀多良比賣せやだたらひめ、其の容姿かたち麗美うるはしければ、美和の大物主神、見感みめでて、其の美人をとめ大便くそまる時に丹塗りの矢とりて其の大便る溝より流れ下り、其の美人の陰部ほとを突きき。 爾して其の美人、驚きて、立ち走りいすすきき。 すなはち其の矢をち来て床の邊に置くにたちまちうるはしき壯夫をとこと成りき。 即ち其の美人をめとりて生みし子は、名を富登多多良伊須須岐比賣命ほとたたらいすすきひめと謂い、またの名を比賣多多良伊須氣余理比賣ひめたたらいすけよりひめ【是は其の陰部と云う事をにくみ後に名を改めるなり】と謂う。

古事記・中巻・神武天皇

伊須氣余理比賣は三輪山の主、大物主大神の娘だったのである。これで多氏と三輪山との関係の深さはご理解いただけるかと思う。多氏の始祖神八井耳命からすれば(ひいては多氏にとって)、三輪は母親の実家のあった場所、そして三輪山は祖父である大物主大神が鎮座し、今もなおその霊威をお示しになっている聖なる山であったのである。「太陽に道」云々は別にしても、そんな山から日輪が昇りくるところを、春分秋分と言った極めて大切な日に拝むことが出来る地にその末裔が居を構えたとして何の不思議もない・・・