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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

続多神社余話

前回はかなり怪しげな私の妄想にお付き合いいただいた。今回もついでのことであるから、もう少し妄想にお付き合いいただきたいと思う。充分に眉に唾をつけてお読みとばしいただければ幸いである。

例の「太陽の道」云々の有無についてはともかく、多の地が南北上の位置において重要な地点にあったことは前回述べたとおりである。農耕をその主なる生業としていた我が国の古代の民にとって、四季の巡行を把握することは必須のこと。よって、春分秋分の日がいつであるのかを知ることは実に大切なことであった。そして、多神社はその日を、三輪山山頂から上る日輪にて居ながらにして確認できる好適の地であった。さらにはその三輪山が己たちの祖神たる大物主大神の住まう霊山であり、母親ゆかりの懐かしい山を日ごと1日のはじめに上り来る日輪とともにその秀麗な山容を伏し拝むにも格好の地であったと・・・

けれども、単にそれだけならば彼等は大和盆地の北緯34度32分の地であるならばどこでも良かったことになる。ここ多神社の経度は東経135度47分。この場所でなければならなかった理由は・・・果たして存在するのであろうか?このことを考察するに当たってまずは多氏の祖神八井耳命かむやゐみみのみことがいかなる人物であったかをまずはご紹介しよう。

古事記中巻神武天皇の条はその末尾に神武天皇の皇子たちについて次のように語る。

故、日向に坐しましし時に、阿多あた小椅をばしの君の妹、名は阿比良比賣あひらひめを娶りて生みたまへる子、多藝志美美たぎしみみ命、次に岐須美美きすみみ命、二柱いましましき。 しかれども更に大后おほきさきと爲す美人をとめを求めし時に・・・<中略>・・・ 天皇、其の伊須氣余理比賣の許に幸行いでまして、一宿ひとよ御寢みねしき後に其の伊須氣余理比賣、宮の内に參入まゐりし・・・<中略>・・・れ坐しし御子の名は、日子八井ひこやゐ命、次に神八井耳命、次に神沼河耳かむぬなかはみみ命。三柱。

古事記中巻神武天皇

この記事に従えば、神武天皇には阿比良比賣との間に多藝志美美命・岐須美美命の二柱と、皇后伊須氣余理比賣との間に日子八井命・神八井耳命・神沼河耳命の三柱の皇子がいたことになる。そして、ことは神武天皇崩御後に起きる。

かれ天皇かむあがりましし後に、其の庶兄ままあに當藝志美美命、其の嫡后おほきさき伊須氣余理比賣を娶りし時に、將に其の三柱の弟を殺さむとして謀りし間、其の御祖みおや伊須氣余理比賣うれえ苦しびて、歌を以ちて其の御子等に知らしめたまひき。歌ひたまひしく、 狹井河さゐがはよ 雲立ち渡り 畝傍うねび山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす また歌ひたまひしく、 畝傍山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとぞ 木の葉さやげる

古事記中巻神武天皇

天皇崩御後、その皇后を継子である當藝志美美が妻とすることは現代に生きる我々にとっていささか抵抗を感じられるが類例は開化天皇伊迦賀色許売いかがしこめの間にも見られ、古代においてはこれを罪悪と考える思考はなかったものとみられる。あるいは柳田国男などの言うところの「妹の力」と呼ばれる女性特有の霊的な力をその背景に読むことが出来るかも知れない。

ともあれ、伊須氣余理比賣の二人目の夫當藝志美美命は嫡流から皇位の簒奪を企てた。三人の皇后腹の皇子を飛び越して當藝志美美命が皇位につこうとすれば、彼にとっては義理の弟である(さらには義理の息子である)この三人の皇子は除かれねばならない。当然のことながら、妻である伊須氣余理比賣は今の夫と前夫とのかわいい息子たちとの間に「患え苦し」む事になるが、最終的には親としての愛情が優先された。

しかしながら、このことを當藝志美美に気取られてはならぬ。彼女は二首の歌に託し、我が子に危機が迫っていることを知らせようとした。狹井河にたち渡る雲・吹く風によって生じる畝傍山の木立の「さやぎ」が、その危機を示している。

伊須氣余理比賣は神武天皇崩御後、故郷である狹井河の畔に移り住んでいたのであろうか・・・そこに當藝志美美は通い詰めていたのであろう。そしてそこで伊須氣余理比賣は當藝志美美の企てを知ることになる。だから雲が立ち渡るのが狹井河なのだ。急激な雲の成長は天候の急変の徴候・・・すなわち當藝志美美の悪しき企てを示す。そしてその異変が畝傍山の麓に住む皇子達のもとに及ぼうとしている。それが風吹かむという一節により皇子達に伝達されたのだ。皇子達は父神武の亡き後、その宮処畝傍山の麓に暮らしていたのであろう。

事のあらましを覚った神八井耳命と神沼河耳命は當藝志美美を急襲する。ひょっとしたらその場所は狹井河の畔、伊須氣余理比賣の住まいであったかも知れない。

是に其の御子聞き知りて驚き、すなはち當藝志美美を殺さむとしたまひし時に、神沼河耳の命、其の兄神八井耳命にまをししく、「なね汝命いましみことつはものを持ち入りて當藝志美美を殺したまへ」。 かれ、兵を持ち入り以ちて將に殺さむとせし時に、手足わななきて、え殺したまはざりき。 故、しかして其のいろど神沼河耳の命、其の兄の持てる兵を乞い取り、入りて當藝志美美を殺したまひき。 故、また其の御名をたたえて建沼河耳命たけぬなかはみみのみことまをす。 爾して神八井耳の命、弟建沼河耳の命に讓りて曰ししく、「吾はあたを殺すこと能わず。汝命は既に仇を殺したまひき。故、吾は兄にあれどもかみと爲ること宜しからず。ここを以ちて汝命は上と爲りてあめした治めたまへ。は汝命をたすけ、忌人いはひびとと爲りて仕へまつらむ」。

古事記中巻神武天皇

そして「當藝志美美を殺さむ」とするとき、弟の神沼河耳命は、兄の神八井耳命に花を持たそうとしたのだろうか、「なね汝命、兵を持ち入りて當藝志美美を殺したまへ」と言う。が、兄の皇子は「手足わななきて」殺すことが出来なかった。仕方なしに弟の皇子は兄から武器を奪いとり、當藝志美美を誅殺した。

そして・・・皇位の継承である。この事変にかかわることのなかった長子の日子八井命は自ずと道を弟たちに譲ったのであろうか、ここに名は出てこない。順番で言えば兄の神八井耳命であっただろうが、今回の功労者は神沼河耳命である。さらに言えば兄の皇子は自らの不甲斐なさを覚り、皇位を継承するにふさわしくない人材であることを知ったのであろうか。「吾は仇を殺すこと能わず。汝命は既に仇を殺したまひき。故、吾は兄にあれども上と爲ること宜しからず。是を以ちて汝命は上と爲りて天の下治めたまへ。」と弟に皇位を譲る。そして自らは「僕は汝命を扶け、忌人と爲して仕へまつらん」と、その補佐者としての人生を選んだのだ。「忌人」とは神祭りを行う者、つまり祭礼にかかわることで弟である神沼河耳命を補佐して行こうと決めたのだ。

さて、ここからが本題である。上に「多神社の経度は東経135度47分。この場所でなければならなかった理由は・・・」と述べたが、そんな神八井耳命がそれ以降住まい続け、皇室のために忌人として祭祀を執り行うべき場所が、なぜ東経135度47分にある多の地でなければならなかったのか?

東経135度47分の経線を多の力そのまま5kmほど南にまっすぐ下ってみよう。そこにあるのは神八井耳命の父がその麓に都を構えた畝傍山が聳えているはずである。神八井耳命は自らの父のゆかりの畝傍山を南中の方角に仰ぎ見る地を皇室の安穏を祈る地と定めたのである。

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ここまで書けば、もうみなさんには私の言わんとしていることがお分かりのことであろうかと思う。多の地は、皇室の守り神たる大物主(神八井耳命の祖父でもある)、神八井耳命の母伊須氣余理比賣ゆかりの三輪山の頂を通る北緯34度32分の線と神八井耳命の父神武天皇のゆかりの畝傍山の頂を通る東経135度47分の線が交わる地に位置している。そして、それぞれが春分秋分に日の昇り来る山、毎日の南中時に日の真下にある山(とりもなおさず畝傍山の上空に太陽があるときは正午と言うことになる)なのであって、古代において季節の巡行・時の推移をうかがい知るに絶好の地であった。


私の妄想にここまで2週にわたってお付き合いくださった方々には実に感謝の念がたえない。上に眉には充分に唾をつけてお読みくださいと書いてあったので、話半分に読んでいただけたことと思うが、それではあっても少々はご興味を持っていただけたのなら幸いである。少々申し足りない部分もあるのだが、今回もかなり長めの記事になったためここでいったん筆をおくこととする。よろしければ、次回もこんな私の妄想にお付き合いいただければ幸せである。

なお前回・今回の記事とかなり長めの文章を古事記より引用した。参考までにその口語訳をここに示しておく。

 

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