大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

続々多神社余話・・・これで終わりです

2週にわたって私のあらぬ妄想にお付き合いいただき恐悦至極である。今回で多神社に関わっての世迷言は終わりであるのでもう少しだけお付き合い願えれば幸いである。

さて前々回前回と多神社の位置について、その祭祀を代々に渡って受け継いできた多氏の始祖神八井耳命かむやゐみみのみことと関わりの深い三輪山・畝傍山の関係からその東西・南北への延長線が交差するのが多の地であることを述べた。ただ、その二つの記事をそのまま読む限り、神八井耳命は祖父・母と縁ある三輪山と父神武天皇と関わりの深い畝傍山の緯線・経線が交差するこの地にその「居をさだめ」、忌人いはひびととして祭祀を持って皇室に仕えるようになったかに読める。

しかし正しくは、順序はその逆ではないか・・・と、実は思っている。はじめ多の一族がこの地に住んでいて、その場所の特異性から前回まで述べたような説話が生じて来たのではないか・・・少なくともその説話に中身に関わらずとも、自分たちが三輪山と畝傍山とに密接な関係を持つ一族であるというような認識が生じて来たのではないか・・・そんなふうに思っている。

無論そのことを詳しく論証することは私の力の及ぶところではない。古事記の当該部分あたりはいわゆる欠史八代に相当する部分で、もとよりその記述がそのまま歴史的事実を反映すると考えるのは危険がある。かといって火のない所に煙は立たない。

言われるように古事記が、古代諸氏族と天皇家のかかわりの中でその位置付けを定めんがため幾つかの説話をいくつか創作(こんな場合今流行りの捏造という言葉はあんまりふさわしくない)したものとするにしても、その下敷きとなるような事実がそこにあったと考えることは全く不必要なこととは思われない。ただし、不必要でないことと事柄を明確に論証できるかどうかということは全く別物で、今回の一連の私の妄想は決して論証できるような質のものではなく(そして私にそんな力量があるはずもなく)・・・どう足掻いてみても「そんなふうに思っている」としか言えない。

・・・と、とりとめもない我が妄想はここで止め置くことにして、多神社周辺のリポートをもう少しだけして、今回の話は終わることにする。

多神社の前を東西を走る道を挟んで南側に少々まばらな木立がある。そしてその木々の隙間からこじんまりとした御社が向こうを見て(即ち南を向いて)立っているのが見える。せっかくだから正面に回ってみることにすよう。

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小杜神社である。祭神太安万侶。 大和・紀伊 寺院神社事典と言う書物には

多坐弥志理都比古神社の摂社で、同社南東に鎮座。祭神太安万侶。旧村社。鎮座地の小字を木ノ下というため木下社ともいう。「延喜式神名帳十市郡おお社四皇子神の一「小杜神命 神社」に比定され、多神社注進状(五郡神社記)には「樹森神社瓊玉戈神命」とみえる。明治四四年 (一九一一)に古事記撰上二千百年祭が執行され、 昭和一五年(一九四〇)の皇紀二千六百年祭に境内が整備された。学問の神として崇敬される。東方に太安万侶の墓と伝える小円墳がある。

というふうに説明されている。延喜式にもあるというのだから、かなり歴史のある神社であるには違いないのだが、どうやら当初の祭神太安万侶ではなかったように読める。文末に「東方に太安万侶の墓と伝える小円墳がある。」とあるのが少々興味深い。

この「小円墳」は近鉄橿原線新ノ口の駅と笠縫の駅の中間、線路の東に広がる水田の中にこんもりと見えるのがそれであるが、かなり以前はその頂点に太安万侶の墓と書いた標柱が立っていたのだが、いつのことか定かではないが、その標柱は取り除かれた。むろんこれは1979年1月23日に奈良県奈良市此瀬町の茶畑から

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥 年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳

と書かれた墓碑銘のある墓が発見されたのによる。

http://soramitu.net/zakki/archives/5688

本物が発見された以上、そしてそれがかなりの確率で確かであるから、こちらの「小円墳」がいつまでも太安万侶の墓と名乗り続けることはできない。ここは潔く奈良市此瀬町のそれに太安万侶の墓の座を譲り渡したのであろう。

ここではこの「小円墳」にまつわる興味深い伝説だけ紹介しておくことにしよう。それは昭和十四年十月発刊の『磯城』第二巻第五号(県立図書館蔵)に掲載されたもので、当時多小学校教諭の岸上秀雄氏が古老の伝えとして紹介したものである。

小杜神社を去る五町東南中街道の西、磯城郡多村字西新堂の東、字松の下に拾坪の古墳墓を存す。形長形にして芝生なり。往時、其地に老松ありて、その枝葉一町歩にわたる故に「松の下」の称ありき。今を去る五百年前、寺川出水の為に暴水提を崩し、松樹流失して其の舊形を失へりといへども、今尚松の下の称ありて多領に属す。その西に一小部落ありて西新堂と言ふ。 その古老の傳 ふる所によれば松の下の墳墓は、太の大人を南向きに埋りたるを以て、西新堂の住民の死を送るに、必ずその前方約一町南方を通ずるを免れず。故に往古よりその全面を通ずるは畏れ多きを以て、前方に到りたる時、注連(ちゅうれん・しめかざり)を輪とし、之を奉りて神慮を慰め奉りたる例なりしが、明治五・六年のころより中絶して、以後行はれざるに至る。 しこうして松の下に続きて「大上院」の字ありて、およそ三十坪の荒れ地あり、五輪塔二個を存す。何れも文字なくして奈良朝時代のものと傳ふ。この地太朝臣安麻呂の邸跡なりと言ふ。又その地に続きて「寺垣内かいと」及び「北垣内」の地字残す由、是を観るにけだしくも大上院は安麻呂卿の邸跡にして、松の下は安麻呂卿の墳墓なるやもしれぬ。

事の真偽はともかく、かような伝えが残っていることは、この周辺が多氏と密接な関連を持ち続けていたことを彷彿させるのではないかと思う。

ところで、子社神社の南、ほど近い場所にこのような石碑が近年築造された。

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碑はインドの花こう岩を用いており、そこには太安万侶の名と古事記序文を刻まれている。2012年は古事記編纂から1300周年。奈良県内では様々な催しがあった。国立奈良博物館で催された「古事記の歩んできた道ー古事記撰録一三〇〇年ー」もその一つである。他に全国的な研究団体である古事記学会の大会が開かれたりもした。そんな年にここ多神社が何もしないはずがない。

上にも述べたとおり太安万侶の墓は1979年1月23日に奈良県奈良市此瀬町の茶畑から発見された。と言うことは、その遺骨もそこにはあったはずだ。その遺骨は同市内の寺に納められたのだが、2011年、寺から宮司のもとへ遺骨の一部が分骨された。当初の神社側の願いとしては、その遺骨を永く安万呂の墓と伝えられた上の「小円墳」に埋葬し、そこに石碑を建て今は遠くに祀られた太安万侶を多の地から拝むことが出来るようにするための参り墓とすることであった(2012年4月16日奈良新聞)が、この「小円墳」のある馬車は田んぼの真ん中。法律上農地に勝手に墓を作ってはならない。諸手続の煩雑さゆえ当初の計画をあきらめた宮司は最終的に、安万侶を祀る子社神社の程近くに記念碑を建て、遺骨は宮司宅に安置されることに落ち着いた。

今はただこの真新しい石碑に向かい、1300年前の偉業に思いを馳せるのみである。