大和逍遥   

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纏向遺跡・・・8

倭国大乱から連合国家「倭」の成立へ>

以上の事柄からこのことから想起されるのは、いわゆる「魏志倭人伝」(正確には『三国志』魏書東夷伝倭人条)に書かれている「倭国の大乱」以降、「卑弥呼」擁立にいたるまで、そしてヤマト政権の確立までのの歴史的な流れである。

ここから少々話の内容は「モノ」を重視する考古学の立場から離れる。しかしながら、これまで述べてきた事実から連想されることには変わりはない。

西晋の人、陳寿が3世紀末(280~290)に記したこの1988(2008とも言う)の文字は、我が国の古代史を究めようとする人々に今もなお疑問を投げかけ続けている。いわゆる邪馬台国論争である。本居宣長新井白石あたりから始まった論争が未だ決着を見ることはない。

邪馬台国はどこにあったのか、女王卑弥呼はどこにいたのか・・・興味は尽きないが、ここはちょっと目をつぶっておいて、いわゆる「倭国の大乱」について考えてみよう。

卑弥呼が魏に使いを送る時期の7~80年前、「倭」はいくつもの国に別れて相争っていた。が、その争いの内実はどうやら冷戦と呼ぶべき質のものであったと思われる。少なくとも現在の考古学の成果はそう語っている。

大規模な戦闘が行われたことを示すような発掘は未だなされていないのだ。大量に死人が出るような、後の戦国時代のような状態ではなく、下世話に言えば互いにいがみ合い非協力的であったと言うような状態であったらしい。しかし、そのような状態が長く続けば互いが疲弊してくる。まあ、「もう、そろそろええやないか。」というような空気が生まれてきても不思議はないだろう。

くわえて、当時の大陸の状況は、漢の崩壊から三国時代へというのがこの時期に当たり、それぞれの国が強大化してくる時期に当たる。北辺にあった魏は朝鮮半島に進出するようにもなる。その勢いを駆って・・・ということもあながち考えられないことではなくなってきていた。少なくとも当時の倭人たちにはそう思えたのであろう。もはやバラバラにいがみ合っている場合ではなくなってきた。

以上のような事情が絡み合って、幾つかに別れていた国々に一つにまとまろうとの機運が生まれてきた。そして、連合国家としての「倭」が生まれてくるのである。

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