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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

続 円成寺に行く

大和のこと

駐車場から道を渡り、深い木立の中に続く道へと入る。

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木立の間に寺の堂塔の一部がちらちらと見え隠れする。初めてこの寺を訪れる私の期待は少しずつたかまって行く。盛夏はもうそこまで近づいているというのに、この心地よい空気はどうだ・・・滴るような緑の発するものなのか、或いは400mになりなんとする標高がそうさせるのか・・・・それともここにおわす御仏のなせる技なのか。汗一つかかずに私は歩みを進めた。

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木立を抜けた先に広がっているのはご覧のような庭園だ。

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円成寺庭園とも呼ばれるこの浄土式庭園は平安末期の作庭。池の端を巡りながら境内に入るため受付を目指す。楼門に向かって左手にある受付には、実に物静かな、そしておっとりとした感じの初老のご婦人が座っていらっしゃった。ここのご住職の細君なのろうか・・・そんなふうに思ってみたりもした。

円成寺の創建についてその縁起に

当山に伝わる『和州忍辱山円成寺縁起』(江戸時代)によると、天平勝宝8年(756)聖武上皇孝謙天皇の勅願で、鑑真和上の弟子、唐僧虚滝和尚の開山であるとされていますが、同書のなかで中興の祖とされている命禅上人が、万寿3年(1026)、この地に十一面観音像を安置したのが始まりのようです。

とある。その後、天永3年(1112)には、「小田原聖」と呼ばれた経源という僧が阿弥陀堂を建て阿弥陀如来像を安置し、仁平3年(1153)に京都御室仁和寺の寛遍上人(広隆寺別当東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任)が当地、忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流を始め、この寺の基礎が築かれたという。文正元年(1466)、応仁の余波がこの寺にもおよび、その堂宇の多くを失ったが、栄弘阿闍梨を中心に、直ちに復興造営が開始、文明19年(1487)には、14の堂宇が復興された。

江戸時代に入ると、徳川将軍の殊遇を受けたが、江戸幕府瓦解の後には神仏分離運動の影響により衰退の一路をたどり、明治10年(1877)には、本堂、楼門、護摩堂、観音堂、鎮守三社を残すのみとなった。明治15年(1882)、盛雅和尚の晋山(住職に就任すること)以降、楼門、本堂の大修理と本坊、脇門の移建が行われた。さらにはやっとのことで残っていた伽藍の保持がなされ、先代の賢住和尚の時代には主要堂宇の改修がほとんどが済み、浄土庭園などの境内地も整備され、今我々が見ることのできる円成寺と相成った。

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この写真の石仏は・・・その受付にたどり着く前に見たものなのか、受付を抜けてから見たものだったのか記憶が定かではない。中央が阿弥陀如来で天文19年(1550)のもの。左右が地蔵菩薩で、右が永禄9年(1566)、左が天正年間(1573~92)だという。3体ともお顔がとても魅力的に思えたので撮っておいたものだ。

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まずは護摩堂。享保15年(1730)に再建されたものであるが、さらに老朽化が進み平成6年に改修された。護摩を焚くと言えばその向こうにいらっしゃるのは当然お不動様。さらにはかつて食堂のご本尊であった僧形文殊菩薩坐像、そして宗祖の弘法大師坐像がここには安置されている。毎月28日にはお不動さんの護摩供養が営まれているそうだ。

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つぎは本堂。 室町時代の建築だが、全体の意匠は寝殿造風である。入母屋造で妻入(屋根の二つの斜面が織りなす三角形が正面に見えるような構造)とするのは仏堂建築には珍しいのだという。そんなふうに言われると、かつて私がお参りしたことのあるお寺には、こんな形の屋根はあんまり見たことがないように思えてくる。昭和33年から行われた復元解体修理の際に、今の本堂は、文正元年、応仁の兵火によって焼かれた天永3年(1112)創建の旧本堂(藤原時代の阿弥陀堂様式)を規模・様式をそのままに再建したものであることがわかってきた。

堂内には本尊の阿弥陀如来坐像(平安後期のもの)が中央に安置され、その四方に鎌倉時代のものと思われる四天王立像は配され、さらに左右の庇の下に位置する御堂、経蔵、局には開山当初の本尊とされる十一面観音立像(平安中~後期?)が御鎮まりになっている。さらに阿弥陀如来坐像が安置される本堂内陣の四本柱には、観音菩薩勢至菩薩をはじめ、様々な楽器を演奏し舞い踊る諸菩薩が極彩色で描かれているが、これは阿弥陀二十五菩薩来迎を意識したものと思われる。今はすっかりと色あせてしまった菩薩たちではあるが、今もかすかに残る彩色はかつての絢爛豪華を想起させるに充分なものである。

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次は多宝塔。もともとは後白河法皇が寄進したものというが、これまた応仁の兵火で焼失、後に再建されるも大正9年、老朽化が進み鎌倉へと移譲される(鎌倉市の長寿寺にある観音堂は、この旧多宝塔の初層部分の材を用いて建てたものだという)。現在の塔は平成2年(1990)に再建されたもので、塔内には大日如来坐像が安置されている。

この大日如来座像が見もので、台座内部の銘により、安元2年(1176年)、運慶の作であることが知られる。鎌倉時代を代表する仏師として知られる運慶であるが、この作品は作者の20歳代後半頃で現存するもっとも初期のものと推定される。すなわち平安時代末期ということになる。もとは本堂内に安置されていたようだが、現在はこうして多宝塔に御鎮まり下さっている。

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続いて本堂東の石垣の上に立つ、春日堂、白山堂である。全くの同形、同寸のこの二つの社殿は、安貞2年(1228)、春日社御造営の際に、当時の春日社神主藤原時定が旧社殿を拝領し、円成寺の鎮守としたものである。春日大社の社殿を拝領した神社は他にも多く見られるが、その中でももっとも古い時期のものである。上の大日如来坐像と共に国宝に指定されています。

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ひとしきり境内の堂宇や御仏の御姿を拝見した後はいったん外に出て豪壮な楼門を仰ぎ見ることにする。石段上に聳えたつこの楼門の姿は、大和盆地内に散在する大寺のそれに比べれば実にささやかな規模ではあるが、威風堂々の言葉とはまさにこの楼門を形容するために作られたと思われるほどの威厳を放っていた。

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一通りの拝観が終わった私は、先ほどの浄土式庭園の中核をなす池のほとりにしばしたたずむ。どちらかと言えば沈んだ色彩にかたよりがちのこうした古寺にあって、わずかばかりの明るい色彩を放っていた。

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