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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

「雲の墓標」と「春の城」

8月の始めであったか、1つの訃報を新聞で目にした。小説家阿川弘之氏の逝去を知らせるものであった。

海軍体験を通して戦争を描いた「暗い波濤」や「山本五十六」などの作品で知られる作家の阿川弘之さんが3日、老衰のため東京都内の病院で死去した。94歳。葬儀は近親者のみで営む。しのぶ会は後日開く予定。

毎日新聞 2015年08月05日)

94歳という年齢、そしてご息女の阿川佐和子氏が語るところによれば大往生と言ってよい最後であったように 感じられるが、もちろんこれは私の主観に過ぎない。

いつもの拙い文章にお付き合いくださっている奇特な方々なら、この名にし負う海軍好きの小説家の書いてきたものが、日頃私が志向しているところと方向性が違うことにはご理解いただけることだとは思う。にもかかわらず、私には愛して止まない氏の作品がいくつかある。今日はそのうちの2つについて語りたいと思う。まずは氏の代表作中の代表作といっても良い「雲の墓標」についてである。

大学に通うようになった私は、その国文学国語学科内にあった萬葉輪講会なる研究会に入会した。そしてその研究会内で「雲の墓標」なる小説と阿川弘之という小説家の名前を初めて聞いた。国文学について学ぼうとして大学に入っていながら阿川弘之の名も知らぬなどと笑うことなかれ。元々は歴史学を学びたく思い・・・しかも奈良時代歴史学をと思って奈良までやって来た私は、「なあに、文学も歴史もたいした変わりはないさ・・・同じ奈良時代のことを勉強するんだから・・・」とたかをくくり母校を受験した。だから、文学についての予備知識は皆無に等しかったのだ(まあ、これも無知の理由にはならない)。ゆえに笑われるとすれば、阿川弘之を知らなかったことではなく、「なあに、文学も歴史もたいした変わりは ないさ・・・同じ奈良時代のことを勉強するんだから・・・」などと思いながら国文学国語学科の門を叩いたことで あった。

ともあれ、しばしば名を耳にするものだからその内にその小説を読んでみたくなった。文庫本にすれば当時300円もしない一冊であった(実際は古本屋で50円ほどで購入した)。それは学徒出陣した海軍予備学生が、特攻隊員になるべく訓練を積んでゆく日々の苦悩を描いたものであった。けっしてドラマチックではない・・・実に淡々とした物語であった。けれども淡々と描かれているゆえ、逆に作中の人物の苦悩はひしひしと我が胸に迫ってきた。

主人公である吉野次郎はけっして軍の進む方向に納得しているわけではない。かといって大仰にそれを批判することもない。ただ ・・・近いうちに訪れるであろう確実な死に、何とかして意味を見つけようと苦悩を続けている。ある意味、これが当時の学生のごくありふれた姿だったのではないか・・・望むと望まざるにかかわらず、そう遠くはない未来に確実に待っている死をまえにして、それまでの生をいかに生きるべきか、決して長かったとは言えない自らの人生を以下に意義付けるか・・・そんなことに苦悩しながら彼らは毎日を過ごしていたのだろう。

そして・・・読んでいる内に気づいたことがあった。描かれている学生・・・海軍予備学生(一人だけ陸軍)は京都 大学において萬葉集を学んでいた面々がそのモデルになっているのだ。そして私がお教えを受けたH先生もその内の一人であったのだ。だから同じ国文学の話とはいえ、上代と現代というかなり畑違いの作品の名が萬葉輪講会の中でその名をよく聞いたのであった。

元々この小説は全くのフィクションではない。題材となるべき日記が存在した。上に上げた京都大学の面々の一人吉井巌氏の日記である。吉井氏はおそらくは作中の吉野次郎のモデル。作中においては特攻を果たしたことになっているが、ご本人は出陣前に終戦を向かえ、その後大学に戻り上代文学の研究者となる。そしてその友人であった同じく萬葉学者であった大濱厳比古氏(私は作中の藤倉なる人物のモデルではないかと踏んでいる)に、戦時中に書いていた日記を託すことになる。大濱氏は後々アカディミックな道に進まれたのだが(H先生と並んで我が母校にて教鞭をふるっておられた)、若い頃はアララギにも投稿したり、詩を書いてみたりと・・・その方向での人生も考えておられたという。そしてその片鱗はこの雲の墓標の作中作に充分に窺えた。

真幸くて逢はむ日あれや荒橿の下に別れし君にも君にも

展墓

雲こそ吾が墓標 落暉よ碑銘をかざれ

わが旧き友よ、今ははたして如何に。 共に学び共によく遊びたる京の日々や、其の日々の盃挙げて語りし、 よきこと、また崇きこと。 大津よ山科よ、奥つ藻の名張の町よ。布留川の瀬よ。 軍に従いても形影相伴いて一つ屋根に暮したる因縁や、友よ、思うことありやなしや。 されど近ければ近きまま、あんまり友よしんみり話をしなかったよ。 なくてぞ人はとか、尽さざるうらみはあれど以て何をかしのぶよすがとなせ。 友よたっしゃで暮らせよ。

がそれである。

けれども・・・氏は最終的には創作よりも研究の道を選ばれた。そして氏の手元にあった吉井氏の日記は旧制広島高校時代の大濱氏の友人、阿川弘之に手に渡る。そして「雲の墓標」が書かれたのである。

以上、「雲の墓標」の成立に当たっての事情の一部を知ったかぶりをしてご説明申し上げたが、あやふやな記憶を元に書いたのでいささか自信が無い。もし正確なことをお知りになりたいのであれば、阿川氏の短編小説集「水の上の会話」に収められた「友をえらばば」という小品をおすすめする。そこでは小説家阿川弘之がその高校時代の悪友大濱厳比古に悪口の限りを尽くしており(もちろん読めばそれが阿川氏の大濱氏への親しみの表現なのだとすぐ分かる)、上に語った事情もそこに描かれている。

また、大濱氏の最後の著作となった万葉幻視考に解説にもその愛弟子である坂本信幸氏(現萬葉学会代表)もそのあたりの事情を書いておられるので、これ(萬葉幻視考も含めて)もまたご一読をお薦めする。

なお、我がH先生は彼等と同時に学徒出陣したのだが、一人だけ陸軍に進まれた。これが上に「海軍予備学生(一人だけ陸軍)」と書いた「一人」であるが・・・なぜ一人だけ陸軍に・・・との疑問が生じなくもない。このあたりの事情は・・・これら京大の面々の師匠に当たる沢瀉久孝氏の大著万葉集注釈の巻々の付録として添えられた月報(これはもう手に入らないね・・)に大濱氏が寄せた一文に書いてあった。

H先生は・・・泳げなかったのである。

次に「春の城」。

この作品は「雲の墓標」とはうって変わって、主人公小畑耕二には作者阿川弘之氏の実像が大きく投影されている。主人公、小畑耕二は大学を卒業し帝国海軍へ入隊する。そして台湾、東京、中国河北省漢口と、通信兵として暗号解読に従事する。昭和17年に海軍予備学生として海軍に入隊し、昭和18年8月に海軍少尉任官、軍令部勤務を命ぜられ、特務班で対中国の諜報作業担当であるC班に配属されたというのが、氏のこの時期の動きであるから、両者のそれはほぼ一致していると言ってよい。

彼は想いを寄せていた女性や家族、恩師を故郷に残し軍務についた小畑は、自らがひたすら情熱を注げるものを求めた。そして見出した答えが、この戦争において日本が有利になるよう自分が役に立つこと、少なくともそうした気持ちを抱けるようにすることであった。海軍での日々は慌ただしい毎日の中で、結婚問題や友情、友人の相次ぐ戦死、仕事の行き詰まり、上司との確執といったエピソードが気品のある文章で淡々と語られてゆく。

そして迎えた終戦。原爆の投下により大切な人々を失った小畑は、これまで崇拝の対象であった天皇を「天ちゃん」と呼ぶようになる。そして東條ら戦犯が死刑になろうが知ったことではないと言い放つ。自分たちがしてきたことの無意味さを強く感じる一方で、勝者(連合国)が絶対的に正しく、敗戦国が一方的に裁かれる世の流れに違和を強く感じる。

これもまたこの国の当時の多くの若者たちの偽らざる感慨ではなかったのだろうか・・・

戦争が終わって3年目の夏、広島の原爆の被害者達の慰霊の催しの時・・・彼は思う・・・

75年人が住めないと噂に聞いて来た土地に、空地という空地を埋めて、麦がすくすくと育ち、天を指して鋭い穂を見せ始めていた事だけで、彼にはすべてを償ってあまりある歓喜であった。

戦後70年・・・宰相が何とでも取れる曖昧な談話を発表したこの夏・・・大きくその運命を変えられながらも、必死に自らの生の意義を考え抜いた若者たちの精神に触れることも意味のあることではないか・・・と思い、自らの力量の不足を感じつつも2つの静謐な小説について語ってみた。